2004.12.15配布
社会学研究10「社会変動とライフコース」
講義記録(10)
●要点「子供たちの復讐」
世間から敬意を表されることのない老人たちの反乱を描いたTVドラマ『シルバー・シート』が放送されたのは1977年11月12日であったが、その2週間ほど前、東京都北区で、家族に激しい暴力をふるっていた開成高校2年生の息子を父親が絞殺するという事件が起こった。事件を取材した本多勝一は、少年の家庭内暴力を「子供たちの復讐」としてとらえた。「復讐」はなぜ起こったのか。「思春期における自己イメージの再構成の失敗」という視点から分析する。
一般に、幼児期の自己イメージは母親との関係の中でプラスの状態(一次的ナルシシズム)にあるが、児童期になって家族以外の他者のまなざしにさらされることで、プラスの要素とマイナスの要素の入り混じった自己イメージになる。少年の場合、自己イメージは「僕は勉強ができる」というほとんど唯一の、しかし大きなプラスの要素と、「僕は鼻が低い」「僕には友達がいない」「両親は社会的地位が低い」といった身体的・社会的・家庭的なマイナスの諸要素から構成されていた。しかし、マイナスの諸要素は「僕は勉強ができる」という大きなプラスの要素によって補完されていた(一元的自己イメージ)
少年の自己イメージを支えていた「僕は勉強ができる」という唯一のプラスの要素は、開成中学に入学したことを契機として、「僕は勉強ができない」へと反転していった。当初、少年は「僕は勉強ができる」という旧い自己イメージの回復のために努力したが、その努力は徒労に終わり、「僕は勉強ができる」という自己イメージを少年は放棄せざるを得なくなった。しかし、両親(とくに母親)はあいかわらず少年の旧い自己イメージに固執し続け、「少しでも勉強すれば、後は上昇するだけ」という期待のまなざしを少年に注いでいた。マイナスの要素だらけになった自己イメージをかかえながら、少年は新しい自己イメージの構築に向けて歩みだすこともできず、かといって旧い自己イメージに戻ることもできず、しかし戻って欲しいという両親の期待を苦痛に感じながら、いまのこの惨めな状況に自分を追い込んだのは一体誰なのかと考えた。答えはすぐに出た。それは両親だった。社会的地位も教養もない両親が、小学生だった自分を勉強一本の生活に追い込んで、エリートコースを進ませようとしたこと。それが原因だと考えた少年は、「僕の夏休みを返せ!」「青春を返せ!」と叫びながら両親に暴力を振るったのである。
●質問
Q:もし少年が開成でなく普通の公立校に進んでいたら、あのような惨劇は起きなかったのでしょうか?
A:同種の仮定はさまざまに立てられます。「もし少年の鼻が高かったら」「もし少年の父親が高学歴のサラリーマンだったら」「もし少年に親友がいたら」・・・・それぞれ私が少年の自己イメージのマイナス要素として指摘したものを反転させる仮定です。したがって、もしそうであったら、当然、惨劇が起きた確率はずいぶん小さくなるはずです。問題はそうした仮定を立てることにどれだけの意味があるかということです。他の要素が同じでその要素だけが違う内容になっているということがありえるのか。他の要素も連動して違ってくるのではないか。そうするとそれはもうA少年のケースとはいえないのではないか(まったく違う少年の話になってしまうのではないか)ということです。
Q:現代の子供はみな親を否定したがるのでしょうか。
A:少年は高学歴と社会的威信の高い職業を志向していたようですから、低学歴で社会的威信の低い職業にある父親はその意味では否定されるべき(乗り越えられるべき)存在として想定されていたといえるでしょう。しかし、いまの時代、子供が親を社会経済的に乗り越えることは簡単ではありません。高学歴で社会的に成功した親をもつ子供は、親をモデルとしてそれに倣うか、反対に親とは違う人生を歩むことで親と比較されることを回避しようとするでしょう。
Q:子供を愛していてもうまく子育てができないこともあるんでしょうか。
A:はい。子供を愛している親は子供に「幸せになってほしい」と願います。問題は「幸福な人生」のイメージです。それが「よい大学」を出て「よい仕事」に就いて「よい人」と結婚する人生であったとしましょう。「よい○○」というのは一般に希少な社会的資源ですから、当然、それを得るためには他者との競争に勝たないとならない。子供は親の期待を内面化して、一所懸命競争します。その結果、少数の勝者と多数の敗者(親の期待に応えることの出来なかった子供)が生まれる。つまり、親が子供の幸福を強く願うほど不幸な子供が増えるという逆説が存在するのです。これを「よい子」問題といいます。
Q:私はいま自己イメージを変えたいです。何が必要かはよくわかりません。
A:自己イメージは他者との共同制作物ですから、自己イメージを変えたいのなら、新しい他者との相互作用か、既存の他者との関係における新しい自己呈示、このどちらか(あるいは二つとも)が必要です。
Q:私には反抗期らしい反抗期がなかったのですが、それは自己イメージの再構成が行われなかったということですか?
A:二通り考えられます。第一は、子供時代の「よい子」の自己イメージが温存されているということ。第二は、自己イメージの再構成がゆるやかに行われたということ。
Q:この少年を診察したK医師は社会から批判されることがなかったのですか。
A:あったとは思いますが、法廷でK医師は「私に予想家のマネをさせるのかね」といった発言を自分はしていないと証言しています。
Q:裁判の結果はどうなったのですか。
A:二審も一審の判決(懲役3年執行猶予4年)を支持しました。検察は上告をせず、これで結審しました。
●感想
小学校の頃の成績は優秀だった私ですが、中学入学を機に一気に成績が下がり、親から毎日のように「お前はバカだ」と言われ続けました。そのとき泣きながら「俺はバカじゃない」と言っていた自分は、必死に旧い自己イメージにしがみつこうとしていたのだなーと実感しました。★「お前はバカだ」は反語。
育ててきた子どもに暴力をふるわれることは親にとってこれほど裏切られたと思う瞬間はないだろうし、つらいことはないだろうと思います。それなのに何とかしようと考え続けたことに親の深い愛を感じました。★「よい子の親」という親としての自己イメージを回復したかったのだとも解釈できます。
私も高校に進学したとき周りとのギャップがあることに気づきました。医者やインテリやお金持ちの子供が多かったからです。でも逆に私はそれが刺激的で面白かった。私の父はジーンズで出勤とかいう表具師でいわゆるブルーカラーですけど、家族みんなで、「おまえがG高に入ったのギャグだよね」って笑ってました・・・・。★ギャクではなくて何かの間違いだったとか(失礼)。
社会学研究11の授業でならったのですが、最近の若い人は他者とは感覚の共同体の関係であり、お互い共依存だるため、傷つきやすいそうです。★「そうです」って、なんだか人ごとみたいだね。君自身が「若い人」なんだから、そういうふうに自分たちのことを説明されてどう考えるわけ?
今日の話を聞いていて、自分の兄のことを考えました。兄にもかなり似た行動が見られます。事件の分析の中に、父親が父親らしい行動ができなかったとありましたが、うちは母子家庭で父親がいなかったので同様の傾向が出たのかなと思いました。★母子家庭の場合、母親が父性的なものと母性的なものの両方を兼務するか、単純に父性的なものが欠落するかのどちらかになるわけですが、母子家庭の子供に家庭内暴力が多いというデータはありません。
僕は思春期に父親がすでにいなかったので、母親にずいぶん反抗しました。自分に息子ができたらどんな対応をすればいいのか今から悩みます。★大切なことは生物学的父親がいるかどうかではなく、心理学的父親、つまり父性を感じさせる大人との出会いを経験できるかどうかです。
僕もつい先日両親とケンカをし、それ以来、「家を出て行け。一人暮らしをしろ!」とずっとしつこく言われています。両親にとって僕は邪魔なのでしょうか? 来週は家庭も捨てたもんじゃないって思えるような心温まる話をお願いします。★「家を出て行け」というのは、親が子供に対して経済的な優位にあることを強調するときの常套句ですから、聞き流しておけばよろしい。来週は職場の話をする予定なので、あなたのリクエストには一冊の小説を紹介することでお応えしたいと思います。瀬尾まいこ『幸福な食卓』(講談社)。
子育ては大変なんですね。親に感謝すると同時に自分にできるかどうか不安になります。★自分の思い通りに育たなくても「まぁ、いいか」と思うこと。
友人に開成の男の子がいましたが、その人は高校からで、中学から開成の生徒の中には「なんでコイツが?」というような人も少なからずいると言っていました。入学して挫折する人も多く、だいたいは不良化するそうで、マージャンやタバコをしている人はかなりいるそうです。★「不良」というのは社会の標準的な価値基準から逸脱した若者を指す言葉ですが、自分を圧迫する価値基準から逸脱することは一種のサバイバル行為です。
私は高校入学と同時に大阪に引越し、自分のコンプレックスを笑いに変えることを学びました。今では、この一重まぶたも、低い鼻も、お肉も、よいネタです。所属集団の変化ってスゴイ!★「身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ」の実践としての自虐ネタ。