2004.6.2

 

社会学研究9「社会構造とライフコース」

講義記録(7)

 

●要点「人生の物語と親子関係」

 「成功の物語」は世代間で継承される。親は子供が「成功の物語」を生きてくれることを期待し、子供はその期待に応えようとする。一般に人間は他者の期待に応えようとして行動する(そうやって自分がまともな人間であり、有能な人間であり、愛すべき人間であることを呈示する)ものだが、親子の間ではその傾向が顕著である。なぜなら、両者の間には愛情という媒介変数が存在するので、親の期待(〜してほしい)は子供にとっての義務(〜せねばならない)に変換される。この点において、愛情は権力と機能的に等価である。

幼児は母親という「鏡」に映った自分(母親に承認された自分)を自己として認識することによって人生をスタートする。たいていの場合、母親は自分の子どもをプラスのまなざしで見ようとする。したがって、幼児の自己イメージは、フロイトが「一次的ナルシシズム」と呼んだように、プラスの要素で肥大した状態にある。この肥大した自己イメージは子どもが家族の外部に歩み出て行く過程で、遅かれ早かれ傷つけられることになるのだが、子どもは母親の自分に対するイメージ(=期待)を裏切らないために、母親にとっての「よい子」を懸命に演じ続けようとする。

 母親が「良妻賢母の物語」を生きている人の場合、母子間での「成功の物語」の伝承にはさらに拍車がかかる。良妻賢母とは夫や子供の成功をサポートすることを自分の役割として引き受けている女性であり、そのために自分の生活を犠牲にしても、夫や子供の成功を自分の成功と感じる(代理的自己実現)ことのできる女性であるからだ。

小津安二郎の『一人息子』(昭和11年)は、そんな母親と息子を描いている。大正の末、信州の田舎。小学校の級長である野々宮良助は担任の大久保先生(!)から進路について聞かれたとき、中学へ進学したいと答えてしまう。母親つねは、最初、経済的理由から反対するが、結局、「うんと勉強して、偉くなるだ」と息子を中学に進学させる。さらにつねは家も土地も売って、製糸工場の雑役婦となって、良助を東京の大学にまでやる。そして昭和11年の現在。一人息子の成功した様子を一目見ようと(そして嫁さんの世話もしようと)、つねは東京に出てくる。しかし、そこで彼女が見たものは、夜学の教師をしながら、東京の場末の粗末な借家で、妻子と細々と暮らしいる良助の姿だった。

 

●質問

Q:代理的自己実現の傾向は日本特有のものですか。

A:自己実現の実践的な場面は労働市場ですから、女性が労働市場に出て行かない(あるいは長期間止まらない)社会では、女性の夫や息子に対する代理的自己実現の欲求は強くなると考えられます。たとえば韓国は日本よりも専業主婦率が高いから、そうした傾向は強いのではないかと思います。

 

Q:一次的ナルシシズムからスタートして母親以外の他者と接することによって傷ついていくなら、幼児虐待のように最初からマイナス・イメージだったらどうなるんですか。

A:第一に、そういう子供は死亡率が高い。第二に、生き延びたとしても、自己と世界に対する基本的不信感をいだいて生きて行かなくてはならないので、他者とコミュニケーションをとることが困難で、できたとしても、自分のことをプラスのまなざしで見てくれる他者を病的に渇望するようになるでしょう。

 

Q:たとえば子供がまったく思いやりのない子であったとしても、母親が「思いやりのある子に育ってほしい」と願って、「お前は本当は思いやりのある子なんだよ」という嘘の自己イメージを刷り込ませることはあり得るのでしょうか。

A:よくあることです。そもそも命名という行為がそうでしょう。私の妻は親から「幸子」と命名されたおかげで、私と結婚し、幸せになったのです。

 

Q:講義の内容とは関係ないですが、息子が知らぬ間に結婚して、子供までいて、さらに仕事まで替えていたのにはお母さんがあまり驚いていないので、そのことに驚きました。昔は結婚は家同士の問題だと聞いていたのですが、それは上流階級の話なんでしょうか。

A:つねさんだって内心は驚いていますよ。なにしろ工場の同僚と「もうそろそろ嫁の心配もしてやんなくちゃなんねいしな」と話していたくらですから、心穏やかではないはずです。でもね、お嫁さんの手前ということもあるし、息子のことを信じている理解ある母親を演じなければという思いもあって、平静を装っているのです。

 

Q:講義の内容とはまったく関係ない質問で申し訳ないのですが、この講義は一文の中でも特別女性が多い授業だと思います。これほど多くの女性を呼び込むには、というかモテるにはどうすればいいのか教えて下さい。お願いします!

A:ローマは一日にして成らず。

 

●感想

 母親が子供に「お前やっぱし中学へ行くだよ」と言うシーンの、期待を背負う子供の悲壮感溢れる「うん、かあやん、おれきっと偉くなる」というセリフに思わず涙。期待されないのが一番楽です。★楽なのは、解放感がある最初のうちだけだと思うけど。

 

 少しでいいから期待もされたいってもんですよね。★ご愁傷様です。

 

 上京した一人暮らしをさせてもらっているのに、変なバイトをしてるってことは母親には言えないですよね。★すぐに足を洗いなさい。

 

 母は自分が早稲田に行きたかったので、私の合格を自分のことのように喜びました。私もたまに「早稲田に来て何もしてないから申し訳ない」と思うときがあります。今も昔も変わらないなあと思いながら映画を観ていました。いい娘をもって良かったね、お母さんと我ながら思いました。★問題は、この先いつまで、あなたが「いい娘」を演じ続けられるかということです。

 

 母親の言うことは絶対であった気がします。いま考えると矛盾していると思えることも鵜呑みにしてしまっていました。それが客観的に見られるようになるときが反抗期なのではないでしょうか。親を重要な他者でなく「他者」と見られるようになったということではないでしょうか。★親に反抗するのは親が重要な他者であるからです。重要な他者に自分に対する認識の変更を求める行為、それが反抗(第二次反抗期)です。ただの「他者」ならそもそも反抗という大きなエネルギーを必要とする行為には及ばないものです。

 

 私は子供の頃から両親にほめられたりすると俄然やる気が出る子でした。そんな私を自分自身「ほめてのびる子」と思っていましたが、今日の授業を聞いて、もしかしたて、私は両親がイメージする自己イメージを取り込もうとしていたのかもしれないと思いました。★なるほど、それはいいところに気づきましたね。えらい! ほめてあげる。

 

 初期のトーキー映画はあまり見たことがなかったけど、子供の泣き方のように今は存在しないような要素が多々ありそうで面白いと思いました。★「言葉遣いの丁寧な妻」なんてのもこの地上から消滅して久しいです。

 

 今日の授業を聴いてしまうと、私は子供をちゃんと育てられるのだろうかなあと不安になります。★大丈夫、誰がどう育てても子供というのは歪むものです。なにしろ鏡の役目をする親自身が歪んでいるわけですから。

 

 私は親が自分の通っていた高校の先生だったこともあり、学校で優秀な成績をとらなくてはというような義務感がありました。周りのみんなからもそういう目で見られているような気がして、プレッシャーになっていた気がします。★私の息子は小学校のとき担任の先生や同級生から「教授」と呼ばれていた。

 

 成功とは何でしょう。僕は日々「これでいいんだ」と自分をごまかしながら生きている気がします。★失敗は成功の母であり、成功はSAYAKAの母である(それは成功ではなくて聖子だ、とツッコミを入れてほしい)。

 

 映画館に行くお金がないので、映画館気分を味わえて楽しかったです。今度早稲田松竹くらい行こうと思います。★飯田橋ギンレイホールの会員(年会費1万円)になると、年間50本以上の映画(2週間に2本のペースで公開)が全部観られます。全部見たら一本200円弱の計算になる。

 

 「愛情」「成功」「幸福」といったものを社会学的な観点から分析的に見ると、複雑な気分になります。教授や学者もそんな風に思うことがないのかなあと思います。★むしろすっきりした気分になるけどね。ただ、大学から自宅に戻るとそうでもなくなっちゃうんだな、これが。

 

 小津の作品をいつもベタほめする社会学の某先生がいらっしゃいますが、私はその先生の授業で小津の作品をみてもいつも眠りの世界に誘われるばかりで、いまいちその素晴らしさというものを実感できないでいました。しかし今日の作品中、ラーメンを食べているシーンをみて、猛烈に食欲を刺激されました(昼を食べたばかりなのに)。この人の作品の素晴らしさというのは、こういうところなのかなとふと思いました。関係ないことですみません。★いやいや、『東京物語』の中でも尾道から出てきた両親が戦死した次男の嫁(原節子)のアパートで出前のカツ丼を食べるシーンがあって、私はあのカツ丼が食べたくてしかたないのです(もちろん原節子と一緒に)。たぶん小津は食いしん坊だったね。

 

 皆いつも出席カードの裏に何を書いているのかが気になります。★とてもここに書けないようなことがいっぱい書かれています。

 

私の田舎は長野県茅野市、小津ゆかりの地、蓼科のふともにございます。毎年小津安二郎記念映画祭みたいなやつで映画が安く観られます。でも小津作品を見るのはこれが初めてでした・・・・。★灯台下暗しでございます。

 

 映画の中での大久保先生がトンカツ屋であったことにショックを受けました。私は志を貫く人が好きです。自分もそうありたいと思いますが、なかなかそうはいきません。早稲田に受かったとき、将来はカウンセラーと思って、心理学専修に進んだが、いまはカウンセラーは考えていない。でも、今のゼミで院に行くか、就職もゼミでやっている勉強に近いマーケティングのことをしたいと思う。自分を正当化するのがうまくなった気がする。ちょっと悔しい。★♪自分を強く見せたり、自分をうまく見せたり、どうして僕たちこんなに苦しい生き方選ぶの〜、と平井堅も唱っている。

 

 現代の親子関係も映画の時代とたいして変わっていない気がしました。母親からの無言の重圧というか期待がかけられている気がします。★映画の中の母親は無言じゃなかった(トーキー映画だし)。「うんと、うんと、勉強するだ」と言っていた。

 

 映画の登場人物たちのやりとりを見ていたら何だか安心しました。ボケ、ツッコミ、ウケをねらうことなく、自然体で空いてを尊重したやりとりになっていて、「さすが小津安二郎」といった感じです。★同感。近頃の映画は観客を飽きさせないように、数分に一回、笑わせたり、怖がらせたりと、忙しいことこのうえない。

 

 良助の「自分でもこうなるとは思っていなかったんだ」というセリフが印象的でした。出てくる人みんながなぜか笑顔でハキハキしているのが少し不思議で、笑顔というのは哀愁が漂うものだと知りました。★ラフカディオ・ハーン(他の人だったかな?)が日本人の「悲しげな笑顔」についてどこかで書いていたような気がします。「モナリザの微笑み」は西洋人には摩訶不思議なものに見えるようですが、われわれにはそれほどのものではない。ところで主人公は人文専修の井桁先生に似ていると思ったのは私だけでしょうか。

 

 夜泣きのおまじない知りたいです。★おまじないとは違うかもしれませんが、寝る前に赤ちゃんの背中をスプーンで擦るといいそうです。

 

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