清水幾太郎における戦中と戦後の間
大久保孝治
一
清水幾太郎に「太宰治と私」という短い文章がある。
一九四八年六月二一日、太宰治の告別式が三鷹町下連雀の自宅で行われたとき、太宰とはまったく面識のなかった清水幾太郎が一読者として弔問に訪れたことは、当時、ちょっとした話題になった。太宰の友人として清水の弔問をありがたく感じた亀井勝一郎は、一九五一年三月に創元社から『太宰治作品集』が出るときに清水に付録の推薦文を書いてくれるように依頼した。その依頼に応じて書かれたのが「太宰治と私」で、同年九月に出版された清水の評論集『日本の運命とともに』に収められている。
「太宰君が死んだ時、家内、子供、友人が私に向つて口を揃へて言つたことがある。それは、第一に、私は、太宰君が身を投じた、あの川の少し下流に住んでゐる。第二に、太宰君と同じやうに、毎日、お酒ばかり飲んでゐる。第三に、太宰君と同じやうに、原稿が書けない書けないと苦しんでゐる。第四に、太宰君と同じやうに、自宅の近所に仕事部屋を持つてゐる。第五に、大体同じ年齢である。併し、ただ一つ違ふのは、私の傍には若い女の人がゐないといふ点で、若し、この上、若い女の人が現はれたら、私はあの川の下流に身を投げるよりほかはない、といふ話であつた。とにかく、私は太宰君の作品を読む度に、隅から隅までよく判るだけでなく、ひとごとではないぞ、といふ気がしてならなかつた。交際がなかつたのに、私が彼の告別式へ出かけて行つたのも、きつと、そのためであらう。河盛好蔵氏に言はせると、太宰君は不良少年で、私は優等生、といふことになるさうであるが、併し、太宰君を読む人と、私を読む人とは、かなりの程度まで、重なり合つてゐるのではないかと思ふ。」
冗談めかした調子で書いてはいるが、平和運動家としての「C水幾太郎の時代」(一九四九年から一九六〇年までの十二年間)の前夜にあたる敗戦直後の数年間の彼を理解する上で、この文章は非常に興味深いものがある。「私は太宰君の作品を読む度に、隅から隅までよく判るだけでなく、ひとごとではないぞ、といふ気がしてならなかつた」とは、当時、一歩間違えば破滅に至るような精神的な危機に清水が直面していたということの告白にほかならない。清水は自伝『わが人生の断片』(一九七五年)の中で敗戦直後の数年間を振り返って次のように述べている。
「敗戦の日に続く数年間、私は、如何にも歯切れの悪い態度で生きて来たようである。自分では、正直な気持で考え抜き、大いに筋の通った文章を書いていた心算であったが、敗戦による価値の転換というのであろうか、新しい善玉と悪玉とで組立てられた張りつめた状況の内部に自分を据えてみると、私の態度は、われながら中途半端なものに思われた。この態度は、昭和二十三年の秋、後に述べるような事情で私が平和運動へ入って行った頃まで続いたようである。」
「太宰治と私」という告白がなされたのは、清水がそうした「歯切れの悪い態度」「中途半端な状態」を脱して、岩波書店の雑誌『世界』を活動の拠点とする知識人グループ、平和問題談話会のまとめ役として世間に広く認知された後のことである。だから「太宰治と私」という取り合わせはいかにも奇妙なものに受け取られた。事実、河盛好蔵ばかりでなく、清水に推薦文を依頼した亀井勝一郎も『文藝春秋』一九五一年七月増刊号の人物論「清水幾太郎」の中で、太宰=不良少年、清水=優等生という見方を披露している。
「私はまたこんな情景を想像する。清水幾太郎氏も亀井勝一郎氏も中学校の一年生で、席を並べてゐる。社会科の時間に、先生が何か質問すると、真先にハイと手をあげて、よく調べた答へを、きちきちとするのが清水幾太郎であつて、隣席の私はいつもやきもちをやき、ひがみ、何となく不良じみて行くといつた情景。ところが清水氏自身は、自分こそ不良少年だと堅く信じてゐるらしい、形跡がある。
(中略)
尤も、太宰に似てゐると言つたのは、清水氏独特の大ほらかもしれない。氏の文章はどうみても不良少年の文章とは違ふ。四年ほど前、私は清水氏らと一緒に氷川丸で北海道に旅行したことがある。総勢十人。文士の方が多かったが、私はそのときはじめて清水氏と言葉を交わした。
十日ばかり起居をともにしたわけだが、私は文士なるものと、社会学者のちがひを時々感じた。だらしないと言へば文士は甚だだらしがない。
船の中、汽車の中、ウィスキーを傾けてワイワイ騒いでゐるのだが、清水氏はきちんと腰かけて本を読んでゐる。つまり清水氏の方が正しいのだし、自由なのだが、太宰といふ人間は、こんなとき内心本がよみたくても、わざと我さきに大酒を飲んで、みなに大笑ひさせようと、死にもの狂ひでサービスする人間なのである。
尤もこれは交際範囲の如何に関することで、清水氏もその親しい仲間の間ではハメをはづすのかもしれない。」
当時、ジャーナリズムでは「人物論」というジャンルが人気を博しており、亀井の文章もそうしたものの一つなのだが、清水は「人物論」の常連―書く側ではなく書かれる側―で、たとえば『展望』一九四九年九月号の「人物点描 清水幾太郎」という無記名の記事ではこんな書かれ方をしている。
「聡明といへば、まるでそれは彼清水のためにつくられたやうな言葉であり、その意味ではちよつといやになるほど智慧のまはる男である。むかしまだ軍部華やかなりし頃、嘘か真か、よくこんな逸話がつたえられた。たとえば某々将軍は、青年将校以来聡明比なく、会議の席などでは、たいてい他人のしやべつてゐる間はウツラウツラと船を漕いでゐる。ところが最後に彼の番が来ると、他の連中の意見などはちやんと腹中に呑み込んだ上で、大勢を達観した一段と警抜な意見を吐くものだから、業腹ぢやあるが、みんな結局舌を巻いて彼の見解に従わざるをえなくなる、といつたやうな種類のものであつた。もつとも筆者は、あまり軍人についてこの種の逸話の真実性を信じない人間であるが、ただ清水幾太郎ならこれくらいの人を食つた芸当は朝飯前にやつてのけさうに思える。」
この記事は清水幾太郎という人物を論じたものとしてはごく初期のものであるが、清水=優等生というその後の清水を論じた文章の多くに共通した等式が早くも見られる。もちろんこの等式には棘がある。清水が「太宰治と私」を書いたのにはこうした等式への反発もあったのであろう。しかし、それは清水=優等生という見方に変更を迫るものではなく、かえって優等生が不良少年を気取ってみせたものとして受けとられたようである。
しかし、「清水氏もその親しい仲間の間ではハメをはづすのかもしれない」という亀井の推測は当たっていた。清水は『わが人生の断片』の中で、敗戦後の数年間の仲間内での自分の立ち居振る舞いについてこう述懐している。
「拗ねていたというか、私は万事を斜めに見ていた。そして、好んで冗談を言っていた。戦後に知り合った友人たちから、「清水さん、もっと真面目に話しましょう」と何度か言われた。この人たちの多くは、官立大学の研究室の奥深くに住んでいて、敗戦の後に初めて発言するようになった清純な人たちである。私にとっては川の向側にいた人たちである。人によってニュアンスの差はあったにせよ、概ね前述の三つの公理(共和制、社会主義、日本の絶対的後進性のことー引用者注)を認め、また、思想の超国家性を信じているようであった。惨めな敗戦国は、誰の目にも、思想によって簡単に超えられるものに見えた。国家が軽く、思想が重く見えた。軽いものに未練のある私にとって、その人たちの言葉は、何時も少し大袈裟に聞こえた。厳粛過ぎるように思われた。この清純な人たちの文章を読んだり、彼らと話したりしている途中、私は、以前からの癖で、『話半分』という意味の cum gurano salis というラテン語を思い出した。」
文士の前では優等生を演じていた清水も、学者仲間の間では不良少年を演じていたのだ。あるいは道化を演じていたというべきかもしれない。「恥の多い生涯を送って来ました」というのは太宰の『人間失格』(一九四八年)の中の有名な一節だが、その主人公の人生の方法論が道化であった。
「おもてでは、絶えず笑顔を作りながらも、内心は必死の、それこそ千番に一番の兼ね合いとでもいうべき危機一髪の、油汗流してのサーヴィスでした。」
自分と類似の方法論に依拠して生きていると思われた作家の自殺が清水にショックを与えたであろうことは想像に難くない。作家の自殺が同時代の知識人にショックを与えた例としては、芥川龍之介の自殺(一九二七年)という先例がある。本来、自殺というものは個人的理由にもとづくもので、特定の時代的・社会的状況との関係を過度に強調すべきものではないだろう。しかし、有名作家の自殺という事件はメディアによってそのように処理されやすい。芥川の「漠然とした不安」はプロレタリア文学の台頭に怯える小市民的作家の不安として解釈された。同様に、太宰の自殺も戦後の混乱の中での繊細で自虐的な道化の精神の破滅として処理された。しかし、太宰の自殺は何度かの自殺未遂の果てのものである。太宰が最初の自殺を企てたのは一九二九年、弘前高校三年生のときだった。太宰は戦前に死んでいても、戦中に死んでいてもおかしくはなかった。さらに言えば、玉川上水での自殺も未遂に終わって、高度成長の真っ直中や、オイルショックの直後に自殺を遂げたとしてもおかしくはなかったろう。しかし、太宰と二つ違いの清水は(清水は一九〇七年、太宰は一九〇九年の生まれ)、太宰の自殺がたとえ時代的なものではないとしても、少なくとも世代的なものではあると受け止めたのではなかろうか。
二人の生い立ちは著しく異なる。清水は東京の下町で没落士族が始めた竹屋の長男であり、太宰は津軽の大地主にして貴族院議員の六男である。出身地も社会階層も家族的地位も対照的な二人ではあるが、当時の才能ある少年たちの例にもれず、清水は学問的な立身出世を、太宰は文学的な立身出世をめざし、東京帝国大学の学生になった(入学は清水が一九二八年、太宰が一九三〇年)。そしてその過程でマルクス主義―たんに書物の中のマルクス主義ではなく共産党の非合法活動と表裏一体の関係にあるマルクス主義―に急速に接近した。清水はマルクス主義の立場から社会学のブルジョア的性格を批判する論文を発表して研究室を追われ、太宰治は大学入学からほどなくして非合法活動に関係するようになった。しかし、マルクス主義との最接近時においても、両者とも共産党の党員になるまでには至らず、清水は日中戦争の激化の過程で唯物論研究会(講座派マルクス主義者のグループ)を脱会して昭和研究会(近衛文麿首相のブレーン組織)に参加し、対米戦争が始まって以降は読売新聞論説委員の職にあった。一方、太宰は、二年ほど非合法活動を続けた後、警察に自首して出て運動からは離れた。それからは創作にエネルギーを注ぎ、大戦中は古典の中にひそんで「右大臣実朝」『新釈諸国噺』などを書いた。そして敗戦。あらゆる価値観が一夜にして変わった。
太宰は「十五年間」(『文化展望』創刊号、一九四六年四月)という文章の中で自分たちの世代の特徴について次のように書いている。
「いったい私たちの年代の者は、過去二十年間、ひでえめにばかり遭って来た。それこそ怒濤の葉っぱだった。めちぇ苦茶だった。はたちになるやならずのころに、すでに私たちの殆ど全部が、れいの階級闘争に参加し、ある者は投獄され、ある者は学校を追われ、ある者は自殺した。(中略)つづいて満州事変。五・一五だの、二・二六だの、何の面白くもないようなことばかり起こって、いよいよ支那事変になり、私たちの年頃の者は皆戦争に行かなければならなくなった。事変はいつまでも愚図々々つづいて、蒋介石を相手にするのしないのと騒ぎ、結局どうにも形がつかず、こんどは敵は米英ということになり、日本の老若男女すべてが死ぬ覚悟を極めた。
実に悪い時代であった。その期間に、愛情の問題だの、信仰だの、芸術だのと言って、自分の旗を守りとおすのは、実に至難の事業であった。この後だって楽じゃない。こんな具合いじゃ仕様が無い。(中略)戦争時代がまだよかったなんて事になると、みじめなものだ。うっかりすると、そうなりますよ。」
こうした「ひでえめにばかり遭って来た」という世代的体験が、「拗ねていたというか、私は万事を斜めに見ていた。そして、好んで冗談を言っていた」という清水の述懐の背後にもあると思われる。ちなみにやはり不良少年を自認する亀井勝一郎も、清水と同い年で、東京帝国大学(美学科)に入学後、新人会や共産青年同盟のメンバーとして活躍し、投獄・転向の後、『日本浪漫派』の同人になるという精神の遍歴を辿ってきた人物である。おそらく太宰はこの世代のインテリにとってのある種の偶像なのであろう。彼らは太宰と自分を同一視したがった。しかし、太宰と自分を同一視しようとする他人には厳しかった。不良ぶるのはおやめなさいと。そうやって偶像を守っていたのであろう。
ここで問題にしたいことは清水が太宰に似ていたかどうかではない。清水が太宰の作品に共感を覚えていたということ、自分も太宰と似たメンタリティーの持ち主と感じていたということ、そして自分の文章の読者層を太宰のそれと重ねてとらえていたということ、これらはいずれも当時の清水にとっての主観的事実である。戦後間もない日本の読書空間において、清水は太宰が自分と似たポジションを占めていると感じていた。その太宰は自殺し、清水は戦後日本を代表するオピニオンリーダーになった。太宰が頓挫した戦中から戦後―終戦直後の混乱期を通過した後の安定した戦後―への移行を清水はいかに行ったのか。考えるべきは、少なくとも私が考えてみたいのは、このことである。
二
満州事変の発端となった柳条湖事件(一九三一年九月十八日)から数えて十五年間に及んだ戦争が終わったとき、清水幾太郎は読売新聞社の論説委員をしていた。七月九日が誕生日なので、三八歳になっていた。
「戦争が終ると同時に、読売新聞社に辞表を出したが、暫く出社していてくれ、と言われ、出社だけはしていたけれども、私は、既に退社した人間のような気持になっていた。ところが、意地の悪いもので、その頃から、私が社説を書く頻度が急に高くなり始めた。敗戦までは、何と言っても、戦局担当の四万田氏が一番忙しかったが、戦局という問題は完全に消えてしまった。その上、政治や経済の諸問題について積極的な具体的な主張を試みる機会も失われていた。日本政府が主体性を奪われ、未曾有の混乱の上に占領軍の権力が高く聳えていたのであるから。そうなると、敗戦に伴う大きな転換に関する一般的な思想的な諸問題を論じるほかはない。それは、結局、私の仕事になった。気持は早くから社外の人間の心算でありながら、私は頻繁に社説を書いていた。」
清水が終戦と同時に読売新聞社に辞表を出したのは、戦時の言論統制の下に置かれた公共のメディアで社説を書いていた「戦争協力者」として出所進退をはっきりさせることを当然と考えたからだろう。『わが人生の断片』にはその当然の行為がなされなかった(五ヵ月ほど遅れた)理由として、「暫く出社していてくれ」と言われたことと、「私が社説を書く頻度が急に高くなり始めた」ことの二点が示されている。どちらも外部からの要請であるが、当然、生活のためということもあったろう。実際、清水が正式に退社に踏み切ったのには、新聞社を辞めても生活していける目処が立つようになったということが大きい。
「八月十五日後になると、今まで何の交際もなかった町内の有力者たちが、自分たちに民主主義の話を聞かせて戴きたい、と頼みに来る。代議士の或るグループから民主主義の講義を依頼される。用紙や印刷の事情が悪かったのに、次々に新しい雑誌が創刊され、編輯者が原稿の依頼に訪れる。長い間、諸雑誌に何も書かなかった私を、どうして覚えていてくれたのか、急にチヤホヤされるようになった。そういう空気のあったことが、一部分、読売新聞社を退社して、定収入のない人間として、混乱と窮乏とインフレとの世界へ入って行く勇気を私に与えていたのであろう。」
講演や原稿の依頼が次々に来たということは、世間は必ずしも清水を「戦争協力者」として、いわんや「戦争犯罪人」としては、みなしていなかったということを意味する。それは新聞社の内部でも同じで、十月下旬から始まった第一次読売争議において、争議団が社内の「戦争犯罪人」の追放を宣言した際、清水の名前はそのリストには載っていなかった。リストには論説委員数名の名前も載っていたから、清水の名前がリストに載らなかったのは、清水が論説委員であったからではなくて、清水の書いた社説が「戦争犯罪人」のものではないと判断されたからであろう。
清水が戦時中に書いた最後の社説は「本土決戦はすでに始まつてゐる」(八月九日)である(清水礼子編『清水幾太郎著作集』所収の「執筆目録」による)。毎日午後三時に論説委員会が開かれ、そこで翌日の社説のテーマと執筆者が決まるというのが慣例であったようなので、清水がこの社説を執筆したのは八日の夕方近くであったろう。ソ連が日本に宣戦布告をした日であるが、その情報はまだ伝わっていなかったはずである。もちろん九日午前十一時二分に二つ目の新型爆弾が長崎に投下されることは知るよしもない。社説は、「一夜のうちに幾つかの都市が灰燼に帰し、帝都は昼となく夜となく警報発令下にあるといふ現実」について、「既に吾々の生活になりきつてゐるとも言えるこの事実は必ずしも軍官民ともに当初から予想してゐたものではなく、胸に手を当てて考へれば、誠に許し難いあるべからざる飛んでもない事柄」であると断じた上で、しかし、国民の間には「かふいふ事態に慣れてこれをまるで当然の如くに見送る気持」が深く根を張ってしまっていて、「やがて来るべき本土決戦を待ちながら、今はただ忍んでゐればよい」「某月某日愈々本土決戦の幕が切つて落とされ、一切はそれからだ」と考えているようであるが、それは間違いで、敵の本土作戦は「これから始まるのではなくて夙に始まつてゐる」と注意を喚起している。
社説「本土決戦はすでに始まってゐる」はそのタイトルから予想されるような「必勝の信念」や「決死の覚悟」を国民に呼びかける内容のものではない。戦争の最終段階として想定されている本土決戦が、いましばらく先の話ではなく、現段階がすでにそうであると指摘することは、国民の弛緩した気持ちを引き締めるという表向きの効果の他に、暗に当局批判を含んでいる。なぜなら国民が本土決戦をいましばらく先のことと思い込んでいるのは、当局がそのように宣伝しているからである。それになりより連日連夜の空襲を「当初から予想してゐたものではなく」「許し難いあるべからざる飛んでもない事柄」と断じることは、戦争を遂行してきた指導者たちの責任を問うことでもある。社説に時局批判を含ませるこうした手法は、戦時中に清水が書いた社説に共通して見られるものである。清水は自伝の中で社説のレトリックについてこう説明している。
「どの新聞の社説も、内容は似たり寄ったりのものになっていた。これは、あの時代の顕著な事実である。しかし、そう顕著ではなかったが、もう一つの事実があった。それは、大部分の論説委員には意地があったという事実である。大筋としては注意事項を守って書きながら、そこへ、一行でもよい、一語でもよい、こちらの言いたいこと、当局の好まぬであろうことを忍び込ませた。忍び込ませたところで、それが天下の大勢に影響を及ぼすことはなかったし、今日、その例を紹介してみても、洒落の説明をするような、間の抜けた話になるであろうが、それでも、小さな意地を張るのが、せめてもの生き甲斐であった。それに、生れた時から言論の制限に慣れて来ただけに、一行か一語かに意地を張る方法も少しは心得ていた。」
清水がこのとき具体例として紹介した社説は「親心返上論」(一九四五年一月三十日)である。いまや国民全員が勇敢な兵士であるのだから、当局は、その兵士に向かって、危険がないから前進しろではなく、危険を覚悟で前進しろと言うべきだ(=戦局の真相を発表すべきだ)という内容である。この社説に対しては全国から投書が殺到した一方で、社長は情報局へ出頭を命ぜられ、さんざん文句を言われたそうである。清水が「洒落の説明をするような、間の抜けた話になる」ことを承知の上で、言論統制の下での社説のレトリックについて説明したのには、言論人としての自らの「戦争責任」の回避とまでは言わないまでも、それを多少とも減じようとする心理が働いているように思う。戦時中に全国紙の社説を書いていたことが「戦争協力」に当たることは間違いない。しかし、自分は社説の中に時局批判を含ませていた、つまり体制の内部にあって体制を批判し、無謀な戦争を続けている勢力に抵抗していたのだ、と。
こうした説明ないし弁明のスタイルは、日中戦争の拡大期に、唯物論研究会を脱会した清水が、三木清に誘われて近衛文麿首相のブレーン組織である昭和研究会文化部会のメンバーとなり、そこで東亜共同体論を書いていた事実に対しても適用される。次の引用は『文芸』一九四六年十一月号に清水が書いた「三木清」からのものである。
「支那事変が勃発した。何時の間にか筆を執る職業に入つてゐた私も、多くの知識人と同様に、言論に対する極端な圧迫の下に立たねばならなかつた。満州事変以来の方針が日を遂つて強化されて、今は何を書くにも、自分は支那事変の正義なる所以を確信するといふ弁明を先に立てることが必要になつた。そのため良心的と呼ばれる人々は、次第に沈黙を守るやうになり、事態の進行を眺めてゐる外はなくなつた。それは恐らく当然の成行であつたらう。
しかし三木清は黙つていなかつた。彼は既に開始され、また進行してゐる事態の中に立ちながら、それを出来るだけ望ましい方向へ振り向けようと考へたのであらう。私はこの態度を正しいと信じてゐる。私も与えられた条件の下で最善を尽くすのが任務であると繰返へして説いた。黙つてゐても事態は或る方向へ動く。またたとえ微力を傾けて論じて見ても、事態はそれとは無関係に一定の軌道の上を走つて行くかもしれぬ。しかしどうして現実を固定的に考へる必要があるのか。現実は吾々自身の努力や絶望をも一つの要素として含むといふ意味でプラスティックなものではないか。私はさう考へた。」
しかし、おそらくこうした説明ないし弁明は、戦時中に沈黙を守っていた「良心的と呼ばれる人々」や、さらには治安維持法に触れて検挙され獄中にいた人々には、欺瞞的なものに聞こえたであろう。そして戦後の論壇はそうした人々が長らくの沈黙や弾圧から解放されて積極的に発言を始めた場所であり、清水にとってあまり居心地のよい場所ではなかったはずである。実際、その後、清水が「進歩的文化人」の代表的存在になっていくにつれて、「転向」や「オポチュニスト」ということが、「優等生」同様、ジャーナリズが清水を取り上げるときの語彙の定番になっていった。その途上で出版された最初の自伝『私の読書と人生』(一九四九年十月)の中で、清水は戦中期を振り返って次のような自己批判を行っている。
「私の不幸は、ジャーナリズムへ入り込んで行く過程と、日本のファッシズムが進んで行く過程とが重なり合つてゐたところにある。私は文章を書く以外の方法で生きることは出来ない。衣食の道をこれに仰いでゐるという意味でもさうであったし、社会との結びつきを確かめるとゐう意味でもさうであつた。謂はば自転車に乗つてゐるやうなもので、走つてゐなければ倒れるより仕方がなかつた。私は走り続けた。(中略)故意に問題をはぐらかしたり、とんぼかえりをうつたり、不当に普遍化したり、さういうことを試みながら、運よく出来た隙間に向つて、自分の意図や願望を吹き込んでゐた。(中略)精一杯の仕事、などと言つて、それが自分への悲しい気休めと他人への見苦しい弁解以上の何物であるか。時代の汚れは、そのまま私の汚れであり、時代の傷は、直ちに私の傷である。私自身が時代の汚れと傷とに深い責任を持つてゐるのだ。」
ここから「恥の多い生涯を送って来ました」という『人間失格』の主人公の独白までの距離は遠くない。遠くはないが、しかし、やはり距離はある。なぜなら清水の自己批判は時代批判と表裏一体のものだからだ。『人間失格』の主人公が「恥の多い生涯」を送って来きのは、彼自身のパーソナリティのせいであって時代のせいではない。その意味では、清水の自己批判は、『人間失格』の主人公よりも作家の時代認識、「実に悪い時代であった。その期間に、愛情の問題だの、信仰だの、芸術だのと言って、自分の旗を守りとおすのは、実に至難の事業であった」(「十五年間」)と同一の平面上にあるといえるだろう。
「私自身が時代の汚れと傷とに深い責任を持っている」という自己批判を清水に迫ったのは、当時のジャーナリズムの圧力である。逆に言えば、清水はそうした儀礼を通過することによって丸山真男言うところの「悔恨共同体」、戦後の知識人集団の正規のメンバーとして承認されるに至ったのである。
そして、もう一つ忘れてはならないことは、清水の活躍の舞台となった平和問題談話会は、岩波書店の『世界』の編集長、吉野源三郎の働きかけによって組織されたもので、吉野はこの組織を学者レベルにおける左翼(社共)統一戦線として構想していたということである(吉野源三郎「戦後の三十年と『世界』の三十年」『世界』一九七六年一月号)。幅広い統一や連帯を可能にするためには、戦時中の身の処し方の違いは―積極的・熱狂的な翼賛活動を行っていない限りは―問わないというのが暗黙の了解であったはずである。その意味では、そうした左翼統一戦線の台頭を促した戦後日本の「逆コース」―米ソ対立の顕在化による占領軍の政策転換―の出現こそが、清水を「歯切れの悪い態度」「中途半端な状態」から脱出させた大きな(しかし一つの)要因であったということができるだろう。
三
終戦の年の十二月に読売新聞社を退社した清水は、翌年二月、細入藤太郎(立教大学教授)、大河内一男(東京大学教授)とともに財団法人二十世紀研究所を設立し、その所長となった。研究所の目的は「社会科学および哲学の研究と普及」で、具体的には、「二十世紀教室」という講習会(芝公園の中央労働会館を使って行う約二ヵ月にわたる長期のものと、講師陣が地方へ出張して行う数日間の短期のものとの二種類)の開催と、「二十世紀教室」の講義録の出版が主要な活動であった。研究所のメンバーには、設立者三人のほかに、宮城音弥(慶応大学講師)、福田恆存(東京女子大学講師)、高橋義孝(東京高等学校教授)、渡辺慧(前東京大学助教授)、中野好夫(東京大学助教授)、丸山真男(東京大学助教授)、川島武宜(東京大学教授)、林健太郎(東京大学助教授)などが名前を連ねていた。事務局員は最盛時には十三名いた。しかし、猛烈なインフレの進行を背景として、研究所の運営はしだいに苦しくなり、事実上、一九四八年の秋に二十世紀研究所は活動を停止する。
「二十世紀研究所というのは、戦後の端境期に咲いた小さな花のようなものだと思っている。経営における自分の無能を棚に上げることになるが、それは短命で終わるより仕方なかったように思う。」(『わが人生の断片』)
一方に知識に飢えた人々がいて、他方に戦時中の自分たちの無力を悔いる知識人たちがいた。両者の出会いほとんど必然的であったといえるだろう。この時期、二十世紀研究所のような在野の教育機関が全国各地に出現した。鎌倉アケデミア、京都人文学園、庶民大学三島教室・・・・。そして二十世紀研究所と同様、一時的な活況を呈した後、新制大学の発足や出版界の隆盛と入れ替わるように、その役割を終えたのである。
二十世紀研究所の活動が比較的短命で終わったのに対して、清水のもう一つの活動、フリーのジャーナリストとしての活動はきわめて順調であった。「執筆目録」によれば、清水が一九四六年に雑誌や新聞に書いた(発表した)原稿は六〇本(分割掲載は一本に数える)。一九四七年は三五本。一九四八年は四九本。三年間の一月あたりの平均本数は四本である。大変な数である。背景には雑誌の創刊・復刊ラッシュがある。『世界』(創刊)、『中央公論』(復刊)、『展望』(創刊)、『新生』(創刊)、『改造』(復刊)、『朝日評論』(創刊)・・・・、清水は主要な総合雑誌のほとんどに寄稿していたし、清水が寄稿しているということがその雑誌の質の高さの指標でもあった。
にもかかわらず、清水がこの時期、「歯切れの悪い態度」「中途半端な状態」であったのは、清水が流行の思想に対してあまり魅力を感じていなかったからである。流行の思想の中央には民主主義とマルクス主義があった。民主主義の背後にはGHQがあり、マルクス主義の背後には日本共産党があった。米ソの対立はまだ顕在化していなかったから、二つの思想は共存が可能だった。GHQの民主化政策の下で日本に共産主義革命が起こると―冗談抜きで―信じていた共産党員も少なくなかったのである。
清水が(GHQ経由の)民主主義をどう見ていたかは、たとえば『青年』一九四六年一月号の「日本に於ける民主主義」を読むとわかる。清水はまずポツダム宣言の中にある日本における「民主主義的傾向の復活強化」という字句に着目し、GHQの進めようとしている民主化は新しい民主主義の導入ではなく、かつて大正時代にその萌芽の見られた民主主義の復活を目指すものであるが、民主主義が日本で育たなかったのにはそれ相応の理由があったのだと述べる。
「現在吾々は、双六で言へば、振出しへ戻つたのである。今までの軍国主義の方法を捨てて、新しく民主主義の方法によつて進まうといふ訳である。戦争及び敗戦といふ大きな犠牲を払つた揚句、吾々は振出しに帰つた。民主主義の復活が実現せられようとしてゐる。吾々が出発点へ戻つて、今度は民主主義といふ方法で進まうと決意すれば、アメリカはそれで満足するであらう。併し吾々の問題はそれで済みはしないのだ。アメリカの満足が即座に吾々日本の満足にはならぬといふこと、これは決して忘れてはならぬ。何故なら大正年間の民主主義を挫折させた大問題は今日そのまま残つてゐるからである。成程日本に於ける封建的な機構及び勢力は一掃されるであらうが、第二の経済的問題に対する民主主義の無能力といふ困難は、まだ解決の見込みが立たないからである。」
清水は、戦後日本における民主主義は自由放任のリベラル・デモクラシーではなく、経済生活に対する計画を含んだコレクティビスト・デモクラシーであるべきだと主張しているのである。これは左翼系知識人としては当然の発想であるが、しかし、当時の日本人の大部分が抱いていた民主主義のイメージ(民主化=アメリカナイズ)とは抵触するものであった。
「どういう団体へ招かれても、どういう雑誌に書いても、私は、人々が求めているものに十分に応えていなかったように思う。聴衆も、読者も、編輯者も、歯切れのよい発言を私に期待していたのに、私はいつも歯切れが悪かった。」(『わが人生の断片』)
もう一つの流行の思想であるマルクス主義については、この時期の清水はとくに何も語っていない。少なくとも「マルクス主義」や「共産主義」という言葉がタイトルに含まれるような原稿は一本も書いていない。敢えてマルクス主義と関連性の高いものを探すならば、『世界』一九四八年二月号にの座談会「唯物史観と主体性」で司会を務めたことをあげることができるが、司会というものの立場上、個人的見解を述べることは意識的に避けられている。清水にとって―一般化して言えば、非共産党的左翼系知識人にとって―戦時中の言論統制は形を変えて戦後も続いていたのである。戦時中に当局の果たした機能を敗戦後はGHQと日本共産党が担うようになったのである。
戦時中の言論統制の下で社説を書いていた清水には「意地」があった。では、敗戦後の新たな言論統制の下で書かれた文章にそうした「意地」を見出すことはできるだろうか。私は「執筆目録」を眺めていて、『世界』一九四七年二月号に載った「『ヒューマニズム』の性格」という文章が評論集『人間の再建』(一九四七年七月)に収められる際に「ヒューマニズムの批判」と改題されていることに気がついた。もちろん雑誌に載った文章が単行本に収められるときに改題されることは珍しいことではない。しかし、「性格」という大人しい言葉が「批判」という強い言葉に置き換えられている点に少々引っかかるものがあった。私の疑問はこの未読の文章を読んで解消された。清水はここで共産党に対する批判を目立たない形で行っていたのである。
「十年前のヒューマニズムがその無規定な曖昧のうちに広く社会主義や共産主義を含んでゐたのに対し、今日の所謂ヒューマニズムは却つて共産主義といふよりも寧ろ共産党の方法に対する不満或は反感を特徴とするものと見ることが出来る。消極的ではあるが、ヒューマニズムの意味は先づこの点に求められる。(中略)理想としての共産主義の魅力、即ちその原理が完全に実現された場合の美しい状態は広く知識階級の力を持つてゐる。よほどの成心がない限り、この魅力に抗することはできない。だが翻つて考へれば、ファシズムも民主主義も共産主義も、それが完全に実現された暁のことを思ひ浮かべれば、一般に信ぜられているゐるほどの相違を示すものでなく、いづれもただ美しい立派なものであるに過ぎぬ。それらを区別する著しい差異は、これらの理想を実現のための手段と結合して一体として把握しようとする時に明らかになる。知識階級は理想としての共産主義を鵜呑みにする傾向を示してゐるが、それへの最短距離として採られてゐる方法に向つて広く不満と反感とを有してゐる。ヒューマニズムによつてこの方向へ固定せしめらつつあると言ふことが出来る。」
「目立たない形で」と書いたが、この部分だけを抜き書きしてみると、「今日の所謂ヒューマニズム」の批判的な検討を通して共産党の方法(暴力革命による共産主義社会の実現)を批判していることは明らかである。当然、批判された側はそのことに過敏に反応したであろう。共産主義とファシズムが―間に民主主義が緩衝材として挿入されているが―その実現形態において大きな相違はないと述べられている点も、共産主義者にとっては聞き捨てならないところであろう。おそらく「『ヒューマニズム』の性格」が「ヒューマニズムの批判」に改題されたのは、この文章の眼目があくまでもヒューマニズムの批判であって共産主義や共産党の批判ではないことを強調するための応急処置だったのではないだろうか。
流行の思想に対する懐疑や反感は、しかし、所詮は思想空間内部の話である。もし思想空間そのものに対して不信のまなざしを向けている人間がいるとしたら、彼の目には、リベラル・デモクラシーの信奉者も、マルクス主義者も、ヒューマニストも、そして清水幾太郎も、同じ穴のムジナに見えてしまうだろう。太宰治は明らかにそうしたまなざしの持ち主の一人だった。
「またもや、八つ当たりしてヤケ酒を飲みたくなって来たのである。日本の文化がさらにまた一つ堕落しそうな気配を見たのだ。このごろの所謂「文化人」の叫ぶ何々主義、何々主義、すべて私には、れいのサロン思想のにおいがしてならない。何食わぬ顔をして、これに便乗すれば、私も或いは「成功者」になれるのかもしれないが、田舎者の私にはてれくさくて、だめである。私は、自分の感覚をいつわる事が出来ない。」(「十五年間」)
太宰は同じ文章の中で「サロン」のことを「知の淫売店」とか「人間の最も恐るべき堕落」と呼んでいる。このごろの所謂「文化人」、と太宰が言うとき、当然、その中には清水も含まれているはずである。二十世紀研究所も『世界』も「サロン」なのである。こうした思想空間に向けられた不信と嫌悪のまなざしはひとり太宰だけのものではなかった。『堕落論』(『新潮』一九四六年四月号)の坂口安吾や、「肉体の門」(『群像』一九四七年三月号)の田村泰次郎といった人気作家とその読者たちのものでもあった。たとえば、田村は『群像』一九四七年五月号の「肉体が人間である」の中で「思想」に対する不信を次のように述べている。
「私はこの戦争の期間を通じて、肉体を忘れた「思想」が、正常の軌道を踏みはづしたやうな民族の動きに対してなんの抑制も、抵抗もなし得なかつたのを見た。また長い野戦の生活で、私はもつともらしい「思想」や、えらさうな「思想」をかかげてゐる日本人が、獣になるのを体験した。私もその獣の一匹であつた。私は戦後、幾度日本民族の「思想」の無力さに悲嘆の涙にかきくれながら、日本人であることの宿命をなげいたことであらう。私は、既成の「思想」なるものが、私たちの肉体となんのつながりもなく、そしてまた、私たちの肉体の生理に対して、なんの権威をないものであることを、いやといふほど知らされた。復員してからも同じことだ。これまでの「思想」が、今日のこのヤミと、強盗と、売春と、飢餓の日本を、すこしでもよくしたらうか。ところが、既成の「思想」は相変わらず旧態依然たるお説教と、脅かしとを、私たちの前にくりひろげてゐるだけである。けれども、もはや私たちは誰も「思想」を信じない。」
実を言えば、清水自身にも「サロン思想」や「肉体を忘れた思想」に対する不信や嫌悪がある。そうでないならば、「私は太宰君の作品を読む度に、隅から隅までよく判るだけでなく、ひとごとではないぞ、といふ気がしてならなかつた」という言葉は出てこないはずである。清水にとっての「サロン」、それはかつて自分がそこの一員であった官立大学の研究室である。「拗ねて」「万事を斜めに見て」「好んで冗談を言っていた」清水に対して「清水さん、もっと真面目に話しましょう」と言ったのは、「官立大学の研究室の奥深くに住んでいて、敗戦の後に初めて発言するようになった清純な人たち」であり、清水にとっては「川の向側にいた人たち」だったのである。彼らは「サロン」の住人で、したがって、「その人たちの言葉は、何時も少し大袈裟に聞こえた。厳粛過ぎるように思われた」のである。太宰の「サロン」嫌いは「津軽の百姓」という自意識に由来するところが大きいが、清水の場合は、下町(日本橋)に生まれ、場末(本所)で思春期を送った「庶民」としての自意識に由来するところが大きい。
「官立大学の研究室の奥深くに住んでいて、敗戦の後に初めて発言するようになった清純な人たち」の代表が丸山真男であることは間違いない(丸山は清水よりも七歳年少の一九一四年生まれ)。丸山は『世界』一九四六年五月号に載った「超国家主義の論理と心理」で華々しい論壇デビューを飾った。丸山の論文を『世界』に掲載するよう吉野源三郎編集長に働きかけたのは、丸山の小学校以来の友人、岩波書店の社員で共産党員でもあった塙作楽であった。吉野は丸山の原稿を読んですぐに塙のところへ来て、「いいな。載せるよ」と言ったという(塙作楽『岩波物語―私の戦後史』、一九九〇年)。当時、旧制高校の三年生だった萩原延壽は丸山論文の衝撃を次のように回想している。
「丸山氏の論文の載った雑誌『世界』を手に入れることは容易ではなかった。それは本屋の店頭からすぐに姿を消した。あのザラ紙に印刷された雑誌を、友人や知人の間で回覧しながら、私たちはこの論文を読んだ。そして、眼から鱗が落ちるという言葉通りの、衝撃と戦慄を味わった。昭和二十年八月十五日以後も、私たちの裡に残存していた大日本帝国の精神が、いまや音を立てて崩れ始めるのを感じたからである。かくして、私たちの精神にとっての「戦後」が始まった」(『中央公論』一九六四年十月号)。
丸山の人気に清水は嫉妬したであろう。しかし月に平均四本の文章を新聞や雑誌に書いて生計を立てているフリーのジャーナリストにとって、アカデミックな完成度で競い合うことは難しかった。おそらく元々清水の内部にあった「サロン」嫌いの性向が、丸山真男というライバルの出現によって、さらに強化され、清水の思想を非「サロン」的なもの、脱「サロン」的なものへと加速させていったのではないだろうか。
田村泰次郎にとっての「肉体」は清水幾太郎にとっての「生活」である。それも「庶民の生活」である。「匿名の思想」(『世界』一九四八年九月号)、最初の自伝『私の読書と人生』の第一章となる「墨田川のほとり」(『思索』一九四九年五月)、「庶民」(『展望』一九五〇年一月号)、「日本人」(『中央公論』一九五一年一月号)と続く一連の「庶民の生活」の思想化ともいえる文章を清水は書いていくことになる。そうやって清水は敗戦後の数年間の「歯切れの悪い態度」「中途半端な状態」からようやく脱出することができたのである。
『婦人公論』での連載「家庭の話題から」が始まったのは一九五一年一月号からである。丸山の「超国家主義の論理と心理」は知的水準の高い青年たちの圧倒的支持を得たが、清水の文章はより広い読者層に浸透していった。清水が「太宰君を読む人と、私を読む人とは、かなりの程度まで、重なり合つてゐるのではないかと思ふ」と「太宰治と私」に書いたのは、ちょうどその頃(一九五一年三月)のことであった。
*『早稲田大学文学研究科紀要』第51輯・第1分冊(2006年2月発行)に掲載(オリジナルは縦書き)