電車内空間での逸脱行為

 

石井綾子

                                   

1.はじめに

 

大学進学で東京に出てきて、最もカルチャーショックを受けたのは電車である。朝夕の満員電車ではそれまでに味わったことのないストレスを経験した。その中にいると、通常以上に他人の行動に対して敏感になるように思う。足を開いて座る人、ヘッドフォンから音楽が漏れている人、雨の日に傘をたたまずに乗り込む人、大勢が降りる駅についた時入り口付近に立っている人、他者の暗黙の規範(ルール)を破る行為に必要以上にイライラするのだ。大学1年で電車内空間でのルールの多さとその特殊性に興味を持った。

大学3年の夏、タイの山岳民族の村で2週間生活した。そこで現地の人、ヨーロッパ各国の学生と共同作業を進める中で気付いたのが、やたらに「効率」を重視する日本人の姿である。そういう目線で街を眺めると、日本人は最低限の食事やトイレの時間以外、隅から隅まで時間を余すところなく使おうとしているかのように忙しく動いている。機嫌のよい無為が街に見当たらない。ところが電車内空間では、多くの人々は無為にならざるを得ない。電車内空間への興味はますます大きくなった。

電車内空間を研究することは、私にとって、なぜ自分がイライラするのかを知ることでストレスをなくすため、つまりは、「今までより少し上機嫌に生きるためのテーマ」と言えるだろう。

 

2.社会学的に見た電車内空間

 

一歩電車の中に踏み入ると、人々は公的空間の認識とともに「乗客」という一時的な役割に統一される。この未組織の「集まり」はその偶然性、メンバーの不特定性、相互作用の非継続性と濃度の薄さ(ほとんど無いと言ってもいい)が「集団」とは異なる点で、そこにいる人々は互いに無関心でいることが基本的な対人モードである。E.ゴフマンはこれを「儀礼的無関心」と呼んだ。人々は儀礼的無関心を実践すると同時に、他者にもそれを求める。「集まり」の中でも、それを形成する時間が比較的長く、閉鎖的な空間を持ち、他人との距離が近いという点に、電車内空間の特徴があると考える。例えば、視線はその人の関心を示すものである。電車内で他人にじろじろ見られると不快と感じる、偶然目が合うと気まずく逸らすなどは、儀礼的無関心によるものだと考えられる。

 もう一つ、関心の問題とは別に重要なのは「身体」である。電車に乗るとき、横がけの座席で中央と端が空いていれば多くの人が端に座るのではないだろうか。端から2つ目の席に座っていて端の人が降りたら端にずれるといった行動をとったことがあるのではないか。他人が両側に座るよりも片側の方が落ち着くし、両側が空いていた方がより落ち着く。これは、パーソナルスペース(私有空間)と関係がある。心理学者の本明寛さんによると、「人間は自分の周囲に『パーソナルスペース』という空間を持っている。特に自分の周囲50センチ以内の、体温や体臭まで感じ取れるほど密着した空間は、配偶者や恋人、家族、幼い子供だけが入れる空間であり、それ以外の人間が入りこんでくると不快感や不安感を感じる。」(本明,2001,p70)

それではなぜ、身体が接触する満員電車の中でさえ、人は儀礼的無関心を維持することができるのか。それは無意識的に周囲の人間を人間とみなさないようにすることで成立すると本明さんは言う。見ず知らずの他人と体を接していなければならないような状況では人はそれに耐えるため周囲の人間を「非人格的な存在」とみなそうとするのだ。

電車内空間での携帯電話の使用や化粧は、私的な行為であり「非人格的な存在」とみなしにくくなる。そこにイライラの原因があるのではないか。

 

3.電車内空間での逸脱行為

 

正高信男さんは、その著書『ケータイを持ったサル』の中で、電車内で若者が携帯電話を使用したり、化粧をしたり、地べたに座り込んだりという行為を、若者の「家の中」感覚でいたいという思いの表れ、公共空間への拒絶だとみなし、それを「家の中主義」と名づけている。そしてその背景として、親子関係、特に母子関係を挙げる。

正高さんによると、第二次世界大戦後から、子供を育てる上で母親とのスキンシップの重要性を強調する姿勢が出てきた。

「きっかけは第二次大戦によって大量に生み出された戦災孤児の観察からもたらされた。親を失い施設に預けられた乳児は、しばしば非常に情緒不安定な状態で成育する。それをつぶさに調査した研究者が、人間が健全に社会化するためには、幼少時から親子関係、とりわけ母子関係が良好であることに依存するという確信を抱くに至ったのだ。」(正高,2003,p6)

一方での日本社会の近代化による社会移動=地理的移動の活発化および産業構造の変化によるサラリーマンの誕生を背景とした核家族化、専業主婦の誕生の流れの中で、「うちの子だけには辛い思いをさせたくない」という子ども中心主義の子育てが激化していった。             「『家のなか』感覚で二十四時間を過ごすライフスタイルは、発達の過程で子どもに社会化 を促す力が稀薄になったこと根本は起因する。やみくもに安全基地のみを提供する母子密着型子育てが日本に定着したことによる、構造的問題なのである。」(正高,2003,p92)

このような母子密着型の子育ては、ニホンザルに類似すると言う。「私は子どもを思い切り可愛がることにしている。それの何が悪いんですか。動物だってそうしているじゃないですか。」という母親の言葉に、正高氏は、それでは「ヒト」にしか育たないと反論している。生活空間をあえて私的な領域と公的な領域に区別するのは、人間が恣意的に両者を分割する努力を怠ると、その境界は曖昧化することを意味するのだ。

 

4.おわりに−今後の展開−

 

正高さんの著書『ケータイを持ったサル』に少し異論を唱えたいと思う。まず、化粧や座り込みは別として、若者の問題として取り上げられている携帯電話や電車内でのマナーの悪さについては、決して若者に限った問題ではないということ。そして何より、電車内空間での逸脱行為は、社会性や公共性を失った結果であるとする論に対し、本当に公共性を単に「失い」、サル化した結果なのであろうか、ということである。もともと曖昧だった空間の公私の別が、近代化、都市化にともない公共の空間の概念が生まれた。そして現在、たいした意味を持たずに、まるでサルが群れの仲間の存在を確認するかのようにメールをやりとりする若者が、公共空間の概念を持てずサル化している。この図式にのなかに、「無為」を嫌う、「無為」に耐えかねる特殊現代的な問題が影響を与えているのではないか。電車内での逸脱行為は、現代日本の都市社会に適応しきった結果ではないかと考え、アンケートを実施して研究を進めたいと思う。

 

引用・参考文献

本明寛,2001,『なぜ電車の席は両端が人気なのか』ふたばらいふ新書

正高信男,2003,『ケータイを持ったサル「人間らしさ」の崩壊』中公新書

森下伸也,2000,『社会学が分かる事典』日本実業出版社

 

l       質疑応答

Q:もし現代ではなく、例えば戦前に携帯電話があったとしたら、当時の人びとは今のようには電車内で使用しなかったと思いますか。

A:いいえ。今と同じように使用したと思います。公共性の欠如による携帯電話の使用という方向性ばかりでなく、携帯電話の登場による公共性の欠如という矢印も成立すると思います。携帯電話という便利な道具が出てきたことで、人々はいつどこにいても連絡を取り合うようになった。しかしそれは一方で、それに対応したより高レベルな社会的規範=公共性の必要も生み出したと考えています。現代社会特有の携帯電話に関する問題と、化粧などの過去においても起こりえたはずの問題については別に考える必要があるかもしれません。

 

Q:「はじめに」で電車内空間に興味を持った理由は書いてありますが、電車内空間の何を主題とするのですか。

A:今のところ、完全に絞り込めていないのですが、「なぜ化粧や携帯メールといった行為が批判されるのか」についてやりたいと思っています。実際、アメリカ人や中国人の友人の話では、電車やバスの中で携帯電話を使用することはそれほど批判されるような行為ではないといいます。日本人の中にも「電車内で化粧や携帯をしてても別に腹は立たない」という人もいて、個人差があります。しかしなぜ、日本の社会全体としてはこれらの行為は批判されるのか。メディアをさかのぼる調査もしてみたいと思います。

 

Q:電車内での暗黙の規範を破る行為にイライラすることがあると言っていましたが、実際にその行為を注意したことはありますか。

A:ありません。3年程前、電車内や駅のホームのトラブルで、注意をした人が殴り殺されてしまう事件がありました。私自身あの事件にはショックを受け、注意することを恐れているのもあると思います。一方で、あの事件では当時人の目が少なからずあった駅のホームでなぜ誰も止めに入らなかったのか、とても不思議に思いました。そこで何かの本で調べたのですが、人には、注意したり助けたりできる人間が自分以外にもたくさんいる状況では、人を見捨てる心理が働くといいます。つまり、助けるべき状況を目にしても、自分以外の人間が騒ぎ立てていないと、「騒ぎ立てる程のことでもない」という心理が働くそうです。私も、他人の傘の水が足に垂れてきても、そこで注意して目立つこと、「そのくらいのことで騒ぐなよ」と他者に思われることを嫌ったのかもしれません。

 

Q:4で、「無為を嫌う特殊現代的な問題」とありますが、なぜそう言えるのですか。

A:そこはまだ仮設の段階に留まっています。考察も甘いのですが、タイで、現地人とヨーロッパ各国の人と日本人がアスファルトを敷く共同作業をしていた際、分業を提案して効率を上げたのが日本人だった等の経験や、友人数人の話から見えてきた、電車内で携帯メールや化粧をすることは、時間を有効利用しようとする要素が強いという結果からこう考えました。これから、電車内での携帯や化粧について、時間の有効利用の結果だという仮説に基づいたアンケートや、電車内の観察、「時は金なり」概念の誕生と発展を、文献をあたるなどして研究を進めたいと思います。

 

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