忘れられつつある思想家―清水幾太郎論の系譜―
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一九八八年八月十日の新聞各紙の夕刊(あるいは翌日の朝刊)は一人の社会学者の死を大きく取り上げた。 彼の名は清水幾太郎。ある年齢以上の人でその名前を知らない人はいないだろう。しかし、ある 年齢以下の人でその名前を知っている人は少なく、知っていたとしても、岩波新書のロングセラー 『論文の書き方』の著者としての清水である場合がほとんどであろう。後者のために、毎日新聞の記事を引く。
六〇年安保闘争の指導者として華々しく活躍、その後、防衛力の増強を主張するなど思想的立場を 「右旋回」させて話題になった社会学者の清水幾太郎(しみず・いくたろう)氏が十日午前十一時五分、 心不全のため東京新宿区の慶応病院で死去した。八十一歳。(中略)
東京・日本橋生まれ。昭和六年、東大社会学科卒。雑誌『思想』(岩波書店)の編集に参加した後、 十六年から終戦まで読売新聞社論説委員。
戦後は二十世紀研究所を設立・主宰し、二十四年に発足した平和問題談話会のリーダーとなるなど、 活発な言論活動をはじめ、同年には学習院大教授にも就任した。
全面講和か単独講和かの激しい論争が行われる中、清水氏は全面講和の立場から論陣を張り、内灘(石川県) 砂川(東京立川市)などでの反基地闘争の先頭に立った。
こうした戦闘的な進歩的文化人としての活躍の頂点は、六〇年安保闘争。安保問題研究会を結成した 氏は、雑誌『世界』などに「いまこそ国会へ」など、安保反対の民衆エネルギーの結集を呼びかける多くの 文章を発表し、全学連主流派と行をともにした。
安保闘争を「敗北」と評価した氏は、その後は実践活動から遠ざかり、『現代思想』(昭和四十一年)、 『倫理学ノート』(昭和四十七年)など、地味な研究書を執筆。
しかし、五十年代中ごろから再び時論の執筆をはじめ、『戦後を疑う』『日本よ国家たれ 核の選択』など の著書で、戦後民主主義を強く批判、かつての進歩的文化人としての立場から急旋回した論陣で注目された。 (以下、略)
「進歩的文化人」――記事の中で二度使われたこの言葉はまさに清水のためにあるような言葉だった。 敗戦から六〇年安保闘争までの十五年間にわたる「政治の季節」において、清水は日本のオピニオン・ リーダーの代表だった。ある人物の死亡記事を掲載するかどうか、掲載する場合の記事の大きさを どうするか(何面に何段組みで掲載するか)ということについては、その人物の知名度が大きな 基準となる。清水の死亡記事は彼の知名度にふさわしい大きさであったといえる。
ただし、『赤旗』は清水の死を報じなかった。『赤旗』は清水と同じ日に亡くなった「社会派映画監督 の先駆け」木村荘十二の記事を大きく掲載し、清水の死を黙殺した。清水の知名度の高さは、たんに 「進歩的文化人」としてのものだけではなく、そこからの「急旋回」とも関係がある。共産党の視点で 見れば、戦後の清水は「進歩的文化人」→「トロキスト(全学連主流派)の同伴者」→「転向者」→ 「右翼のデマゴーグ」とその位相を変化させた人物である。『赤旗』は清水の「急旋回」を批判的に語る のではなく、まったく語らないことによって、清水幾太郎という存在そのものを否定したのである。
一方、清水の死を大きく報じた一般紙にも清水の「急旋回」は影を落としていた。先程の毎日新聞の 記事には「かつての友人で哲学者の久野収さんの話」が付いている。「かつての友人」――それは 奇妙な響きをもつ言葉だった。誰にでも「かつての友人」と呼ぶべき他者はいるだろう。しかし、 こういう場合にコメントを述べるのは、「友人」や「好敵手」や「弟子」や「ファン」と相場が 決まっている。「かつての友人」が引っぱり出されるのは珍しい(というよりも、他に例がないの ではなかろうか)。久野は「話」の中で「清水さんと一番付き合いがあったのは多分、僕。清水さん は潔い人だから、ついオーバーランしちゃうんだ。考え方の根は同じなのに、右の人たちが彼の 周りに集まりだして、昔のように付き合えなくなった。″仲良くしよう″という手紙も来たけれど、 立場上返事も出せず、悪いことをした」と述べている。
大きな死亡記事が出たときは、数日中に、夕刊の「文化」欄に追悼文(評論・エッセー)が載ると いうのが、通常のパターンである。『朝日新聞』と『読売新聞』はそのパターンを守った。しかし、 『毎日新聞』と『産経新聞』は死亡記事だけで、追悼文は載せなかった。はじめから追悼文の 依頼をしなかったのか、それとも誰かに依頼はしたが断られたのか、詳しいことはわからない。 いずれにせよ、清水はジャーナリズムから早くも見捨てられ始めていた。
清水の本葬は、彼の死から一ヶ月後の九月十二日、千日谷会堂で行われた。そのとき高等学校の 二年後輩である渡辺慧は弔辞の中で清水にこう語りかけた。
今回のあなたのご葬儀に、来たいにも拘わらず来なかった友人、知人、学生、ファンがいかに多かった かご存じですか? 実際の参会者のおそらく十倍以上あるでしょう。私は彼等を非難しようとは 思いません。それは彼等が悪いのではなくて、日本の封建的政治通念が悪いからです。それにしても、 あなたにさんざんお世話になった出版社や、マスメディアの人々が現れないのは、誠に恥ずべき 忘恩行為だと思います
清水さん、あなたは日本を買い過ぎたのです。飼い犬に手を噛まれたようなものです。あなたが 深く愛し、改良しようと意図された日本の社会の封建的な遺留物は、あなたに復讐したのです。 悲しいけれどもこれが現実です。
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ここで話は終戦直後にさかのぼる。
清水は読売新聞の論説委員として終戦の日を迎えた。三八歳であった。辞表を出したものの受理されず、 そのうちに社内に争議が起こり、再び辞表を出して、年末には開戦前のようにフリーのジャーナリスト に戻った。そして、翌年早々、細入藤太郎、大河内一男らとともに、「社会科学および哲学の研究と 普及」を目的とする財団法人二十世紀研究所を設立し、その所長となった。当時を振り返って、清水 は自伝の中でこう述べている。
敗戦の日に続く数年間、私は、如何にも歯切れの悪い態度で生きて来たようである。自分では、正直な 気持で考え抜き、大いに筋の通った文章を書いていた心算であったが、敗戦による価値の転換と いうのであろうか、新しい善玉と悪玉とで組立てられた張りつめた状況の内部に自分を据えてみると、 私の態度は、われながら中途半端なものに思われた。
日高六郎も「その時期には、思いなしか、却って氏の評論に強さと説得力が失われていたような気が します」と指摘している(創元社『現代随想全集』第十三巻「解説」、一九五三年)。日高はその 理由を、時代の流れと清水の思想とが一致したために清水を清水たらしめていた反逆精神が勢いを 弱めたことに求めているが、そういうことではなかろう、と私は思う。日高は戦前も戦後も 清水が一貫して反逆的精神の持ち主であったとしている。「清水氏のばあい、私がもっとも心を 打たれるのは、戦前の氏の評論のなかで、現在公衆の前に持ち出されて、氏が顔を赤らめなければ ならないようなものが、まったく存在しないということです。」確かに昭和十五年に出版された 『社会的人間論』は、個人の一生を集団から集団への遍歴として描くことで、つまり個人の存立 の足場を多元的な集団のシステムに求めることで、国家という一つの巨大な集団の圧力から、 個人を救い出そうとした抵抗の書であった。しかし、戦前と戦後の間には戦中という時代が存在する。 清水は読売新聞の論説委員としてその時代を生きた。論説委員の仕事の中心は社説の執筆である。 社説は、一般の記事とは違い、事実(どうあるか)ではなく価値(どうあるべきか)を語るもので ある。たとえば、真珠湾攻撃から約一ヶ月後、一九四二年一月二日の社説「大東亜戦争の思想的 課題」は清水の手になるものである。
吾々の思想文化は日本の力である。情報局が歌曲その他の芸術作品に関して、単にそれが英米人の手に 成るの理由を以て排斥することを戒め、専ら作品の価値によつて取捨するといふ態度を公表したことは、 今後の内外文化政策の進路を卜すべきものであると共に他面満々たる自信を窺はせるに足ものである。 自信とは自己封鎖的傲慢の謂ではなく、それが如何なる国に生まれようと、凡そこれを転じて 吾が国の力に化し得るのは進んでこれを摂取し、しかも独自の思想文化の大本に些かの動揺を も生ずることなしとする信念である。国家が思想的および文化的な力を貯へ得るは、先づかく の如き信念に立脚するを要し、これによつて生々発展限りなき成長を所期し得るのである。
引用したのは社説の核心部分である。英米の文化をまるごと排除するようなことがあってはならない というのが社説の主旨である。しかし、言論統制の下で、それだけをストレートに言うことは 許されない。大東亜戦争を肯定し、その勝利を必然であるとする、翼賛的な論調の中に滑り 込ませる以外に表現の方法はなかった。しかし、表現の方法はこれ以外になかったとしても、 表現しない(筆を折る)という方法もあったことは確かであり、そうした方法を選択した人々 からすれば、清水は戦争協力者の一人であった。事実、新聞社で争議が起こったとき、清水は 戦争犯罪人として追放されることを(実際にはそうはならなかったが)覚悟していた。 終戦直後の清水の関心は「戦後」にではなく、「戦中と戦後の間」にあった。それを自己の 内部で処理できない限り、清水は「戦後」に入っていくことができなかった。しばらくの間、 清水は「戦後」の前で立ち尽くしていた。
清水は『朝日評論』(一九四六年六月号)に「体験と内省」と題する評論を発表し、彼自身の 中途半端な態度を、彼個人の問題ではなく、日本の知識人一般の問題として考えようとした。 「最近の言論の顕著な特色は、十年近い戦争の痕跡を何処にもとどめてゐないところにある」と 清水は見る。それは、最近の言論が、戦争中の国民は「戦争に反対していた」か「欺されていた」 かのどちらかであった(一握りの前者と圧倒的多数の後者)という前提に立っているためである。 この前提に立つ限り、人々は自己批判を免除される。しかし、実際には、知識階級の大部分は 二つの極の中間にいた。西洋の学問・芸術から学んだ合理的精神と、日常のさまざまな 社会的経験を通して意識の底に沈殿しているナショナリズムとが、彼らの内部で奇妙に結合し、 併存し、そして分裂していた。民族や国家に軽蔑や憎悪の言葉を投げることがあっても、 その言葉の背後には愛情が隠れていた。その愛情は、これを表現しようとする途端に現在の 政府への、軍閥に動かされた日本への愛情に転化してしまう。本当に愛せられるべきものの 代りに、何時の間にか憎悪の対象であるはずのものが入り込んでくる。憎んでいるものを無意識 のうちに愛しているという矛盾は、自己が純粋になっていくのに応じてかえって深められたと いえる。――こうした内省の過程を経て、清水はこう結論する。
吾々が戦争を通じて追い込まれて行った自己の内部から脱出するには、また純粋な本能として統一された やうに見えながら而も実は悲惨な分裂に外ならぬ状態から逃れるには、即ち新しく統一を回復して 限りない循環の過程を切断するには、どうしても自己を人為的集団の方向に拡大し再建せねば ならない。(中略)戦争の全期間を通じて単なる個人として、自己として、内面性として孤立に 陥った人間を、今は人為的集団との関係に於て掴み直さねばならない。
人為的集団とは自然的集団(家族、民族、祖国など)に対比されるもので、特定の目的のために 人々が作る集団、具体的には、学校、会社、政党などのことである。個人の欲求や関心は 人為的集団を媒介することで全体社会の過程にかかわることが可能になる。人為的集団は 一種のフィクションであるが、このフィクションを信じることがヒューマニズムの精神 にほかならない。清水は自然的集団のリアリティの陰に隠れがちであった人為的集団に戦後の日本の 命運を、そして知識人としての自己の命運を賭けたのである。
大熊信行は「戦争体験としての国家」(『思索』一九四七年春季号)の中で、清水の「体験と内省」 を取り上げ、「内省のふかさと、抽象のうつくしさと、そして表現のもつ柔らかさは、無類 であるといはなければならない」と評した。大熊は戦中の清水が最も恐れた人物の一人であった。 言論統制の隙間をかいくぐるようにして書いていた社説のからくりを、大熊は見抜いている と清水は感じていた。だから、大熊が清水の「体験と内省」を賞賛してくれたことで、 清水は本当に戦争が終わったことを実感した。清水はようやく「戦後」に足を踏み入れることができた。>
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一九四九年から一九六〇年までの十二年間、それは「清水幾太郎の時代」であった。この時期、清水は 「進歩的文化人」の代表として平和運動に深くかかわった。平和運動に限らず、一般に運動とは何らか の価値の実現(あるいは何らかの価値の実現の阻止)をめざす社会的活動である。社会的活動は一人 でも可能だが、それが有効であるためには、組織的であることが求められる。運動に深くかかわる ということは、人為的集団に深くかかわるということである。平和運動家として清水の十二年間は、 「平和」を標榜する人為的集団への参入と、そこからの離脱の反復的過程であった。
清水が参入した最初の組織は平和問題談話会である。米ソのイデオロギー的対立が新たな大戦に 発展するのではないかという危惧は第二次大戦終結の直後からあった。一九四八年七月十三日、 パリのユネスコ本部で、「戦争を勃発させる緊張の原因についての八名の著名な社会科学者の声明」 が発表された。岩波書店の吉野源三郎は、日本の学者たちがこの「声明」に応答する「声明」を 発表することはできないかと考えた。安倍能成、大内兵衛、仁科芳雄の三名を主唱者とする研究会 が組織され、当時の代表的な学者五〇余名がこれに参加した。研究会は七つの部会に分かれて討議を 行ったが、清水は研究会の幹事としてすべての部会に出席し、共通の見解を抽出した綱領を作成し、 総会での議決を経て、「声明」の起草にあたった。こうして「戦争と平和に関する日本の科学者の声明」 が『世界』(一九四九年三月号)に掲載された。
週刊誌や月刊誌の匿名コラムや覆面座談会で「清水幾太郎」が論じられるようになるのはこの頃からである。 たとえば、『週刊朝日』(一九四九年九月四日号)の「顔」というコラムは清水をこう紹介した。
清水幾太郎は批評のうまい人で、どんな問題についても人とはちょっと変わつた角度から光線をあてて 照らしてみせる。(中略)アイデアがいいと言つてもよいし、思いつきが器用だといつてもよい。 思想的にはプラグマティズム。学識もあるし、視野も広い。才人であり才筆家である。専攻は 社会学だが、哲学もわかる。物の見方にソツがなく、広く高く物を見れる人なので、 ジャーナリズムが放つておくわけがない。ジャーナリズムにはもつてこいの便利な社会評論家であり 文芸評論家である。高級総合雑誌の″巻頭論文″などにはウッテツケの筆者である。
毒のある文章である。清水がこうした取り上げ方をされるのにはいくつかの背景がある。第一に、 アカデミズムに対するジャーナリズムの反感。明治以来、政治家でない人間で政治的発言をするのは ジャーナリストか社会運動家に限られていた(たとえば、日露戦争のときの徳富蘇峰、黒岩涙香、 幸徳秋水、内村鑑三など)。平和問題談話会のように学者が徒党を組んで政治的発言をすると いうのは新しい現象だった。第二に、高級ジャーナリズムに対する大衆ジャーナリズムの反感。 平和問題談話会のスポンサーである岩波書店はアカデミズムとジャーナリズムの接点に位置 していた。『世界』や『思想』を舞台に活躍する清水は「岩波文化のお抱え学者」「岩波王国 の隠然たる大番頭」と揶揄された。第三に、清水の「大家気取り」に対する反感。当時、清水は まだ四〇代の初めであったが、最初の自伝『私の読書と人生』を出版し、これは結局実現はされ なかったが、全十巻の著作集の刊行も予告されていた。「清水といふ男はさうした芸当の 平気でできる人間なのである」(「人物点描」『展望』一九四九年九月号)と思われていた。
しかし、清水に反感を抱くジャーナリズムも、彼の力量は認めていた。「当世人物案内日本を動かす 一〇〇人」(『展望』一九五一年七月号)と銘打った座談会で、出席者の一人は「とにかく 一九五一年の日本の代表的人物を求めれば清水幾太郎だ。一人で代表できる者は清水以外にない」 と断言した。当時の論壇において、清水は新しいタイプの長谷川如是閑、あるいは三木清の後継者と目されていた。
平和問題談話会は、最初の「声明」に続いて、日本の全面講和を主張する「講和問題についての 声明」(『世界』一九五〇年三月号)と、朝鮮戦争の勃発という事態を踏まえて「三たび平和に ついて」(『世界』一九五〇年十二月号)を発表したが、その後は外部へ向けての発言は行わなく なり、一九五一年九月八日の対日平和条約(ソ連など三国が調印を拒否したこの講和条約を、反対派 は単独講和と呼び、賛成派は多数講和と呼んだ)並びに日米安全保障条約調印後は、活動を休止した。 メンバーの多くが書斎に戻っていく中で、清水は平和運動の前線に留まった。「私は、自分が 孤独になり悲壮になっていることに気づいていた」と清水は自伝の中で述べている。
そして清水は新しい世界に足を踏み入れていった。そこは平和問題談話会とは違って、平和運動を 職業とする人々の諸集団がそれぞれの事情や思惑を抱えながら分離と融合を繰り返す世界であり、 その中心には左派社会党とその支持母体である総評(日本労働組合総評議会)が位置していた。 平和問題談話会は多くのリベラリストを含んでいたが、新しい世界は社会主義者の世界であった。 ここでも清水は華々しい活躍をした。読者や聴衆の知性と感情と意志に同時に働きかける独特の 文体と話術は「清水節」と呼ばれた。大宅壮一は「教祖的人物銘々伝」(『中央公論』 一九五二年一月号)の中で、清水の教祖的性格を指摘して、彼を「平和論の神さま」と揶揄した。
「平和論の神さま」が大衆ジャーナリズムにおける清水の枕詞として定着した頃、劇作家の 三好十郎が「清水幾太郎さんへの手紙」と題する公開質問状を『群像』(一九五三年三月号) に発表した。三好は、北朝鮮軍の南下進撃を南朝鮮軍およびアメリカ軍の挑発によるもので あるとするストーンの『秘史朝鮮史』の表紙の帯の推薦文に、清水が「この本を読んで眼が さめないものを白痴というのであろう」と書いたことを取り上げ、「ストーンのような物の見方や 書き方をする人、そのストーンの本に就いてあなたのような見方をする人のことを、 われわれ白痴の言葉では、デマゴーグと言います」と切り返した。
実はあなたは共産主義者又は共産党員かもしれない。その事を私だけが知らないのかもしれないし、 又は、あなたが何かの理由のためそれを隠していられるのかもしれない。秘密共産党員と言うのも 有るらしいし、そいう戦術の必要もわからなくはありませんから、それならそれで結構でして、 もしそうなら、このことをこれ以上追求する興味も必要も私にはありません。(中略)それとも あなた又はあなたの属していられる集団の思慮はもっと深いところにあって、将来共産党を 中心にする広範な人民戦線みたいなものを考えていて、それの結成の時にあなたを有力な調整者の ような者にするために、その時まであなたをわざとパルタイの外に置いておくと言うわけなのでしょうか?
清水が「非共産主義的左翼」であることは周知の事実であった。過去に転向を経験したことのある 三好にそれがわからないはずはない。「白痴」を装った三好の質問の真意は、平和運動の欺瞞性を 明らかにすることにあった。すなわち左派社会党や総評の進める平和運動は、絶対的な平和主義 にもとづくものではなく、反米の手段としての一時的な平和主義の上に立つものではないか。 もし日本を占領したのがアメリカ軍ではなく、ソビエト軍であっても、あなたがたは基地反対運動 をするだろうか。――これが三好が平和運動に対して突きつけた質問である。清水はたまたま 質問状の宛先にされたに過ぎない。
竹内好は「知識人の政治参与 三好十郎対清水幾太郎」(『日本読書新聞』一九五三年四月十三日号)の 中で「私をふくめての読者一般は、清水氏がいつ答えるか、どう答えるかを、期待をもって (カタズをのんで、といってもいい)望んでいる恰好になっている」、「確かに三好氏には 若干の誤解がないわけでもない。しかし、それを補うだけの鋭い直感があって、今日の平和論 のインテリ的な弱さをついていると思う。(中略)私は大きな、強い協力のためにはまず 徹底的な内部闘争の必要を強調したい。論争を伏せて協力によって倒れるほど私たちの敵は弱くない」 と述べた。しかし、結局、清水は三好の質問に答えなかった。というよりも、答えようながなかった。 三好の質問に正面から答えようとすれば、竹内の予想する「内部闘争」が生じるであろうが、 しかし、その結果は、竹内の期待する「強い協力」ではなく運動の分裂であったろう。運動の 持続と拡大のためには「論争を伏せた協力」を続けるしかなかった。
封印された回答は、一年後、別の相手に別の形で示された。その相手とは平和運動の中心的な 担い手、左派社会党であった。清水にとって一九五三年は「内灘の年」であった。清水はその一年間 に五度、石川県内灘村を訪れている。内灘村の海岸に米軍の試射場が設置され、当初は一月から 四月までの四ヶ月間だけの使用だったはずが、無期限使用の話が出て、地元の反対運動が激しく なり、北陸の小さな村はにわかに米軍基地反対運動の象徴的存在になった。しかし、清水は内灘村に 足を運ぶうちに、左派社会党は本気で基地反対運動に取り組んではいないのではないかという疑問を 感じるようになった。この疑問は『起ち上がる基地日本』という党発行の小冊子を読んで解決した。 そこには、基地の撤廃は左派社会党が国会で多数を占め、対日平和条約と日米安全保障条約を 改定廃棄した後に実現されると書かれていた。清水は『中央公論』(一九五四年二月号)に 「わが愛する社会党左派について」を書いた。
内灘と限らず、凡て現地闘争の場合、地元の人々は、当の問題に生活の全体を賭けている。自分の一生、 いや、家族の一生を賭けている。地元の問題で勝つというのは、とにかく、その人々の幸福が確保される ことである。或いは、幸福が少しでも増すことである。負けるというのは、民衆の生活が滅茶苦茶に なることである。だから、民衆の生活に近づいて見つめれば、一つの場所でもよい、踏み込んで、 深入りして、是が非でも、戦いに勝たねばならなくなる。それが当然である。だが、あの小冊子に 従えば、地元の熱意に負けることなく、深入りせず、適当な時期に戦術を転換して、次の総選挙の 票を確保しておくことが要求されるいる。現地の問題や闘争は、要するに、票を稼ぐための道具に なる。住民大衆は、一種のモルモットになる。
清水の批判に対して、左派社会党は翌月の『中央公論』に「清水幾太郎氏の愛情にこたえて」を発表した。 左派社会党政策審議会の名前になっているが、これを書いたのは、かつて日本資本主義論争で労農派 の論客として健筆をふるい、『資本論』の翻訳でも名高い九州大学教授、向坂逸郎だと言われている。
清水幾太郎氏にとっては、かつの「メーデー事件」による混乱も革命であれば、内灘の闘いも「小革命」 である。一等寝台車の温かい毛布の中で「革命」的大演説の構想にふける高級で「進歩的」インテリ にとっては、一切が革命に見える。清水氏が可愛いい沢山のミイちゃんハアちゃんを前にロマンティック な「進歩的」な大演説をされる時には、氏の姿が氏自身にとって「革命家」に見える。
このような「革命家」にとっては、革命が地底や工場や農村で塵埃と油と泥土にまみれる人間の中から しか生まれないことは、大変残念なことである。階級闘争ぬきの革命がもしあったら、これほど、清水氏 の気分を浮き立たせるものはない。「民族の独立」! 階級闘争じゃない! 日本の国民が、資本家も 労働者も一緒になって仲よく行進する、その先頭には清水幾太郎という優美な英雄が立っている。
三年前、平和問題談話会の盟友、中野好夫は『日本評論』(一九五一年五月号)の「清水幾太郎」の中で 「ぼくらは決して君だけを平和論の英雄にはしないつもりだ」と一種の危惧を含んだエールを清水に送った ことがあったが、いま、清水は平和運動の中心に位置する集団から「英雄」の烙印を押された。
清水の目には内灘村に外からやってきて本気で反対運動をやっているのは共産党の青年たちだけのように 見えた。しかし、その共産党も、一九五五年一月一日の『アカハタ』で従来の武力革命方式を極左冒険主義 と自己批判し、七月の六全協(共産党第六回全国協議会)で新しい方針(大衆化路線)を発表した。 「革命を安易に考え、革命をせっかちな方法でなしとげようと考えるのは、小ブルジョア的な あせりである。」――決議書の中のこの一文は「内灘」という「小革命」に熱中する清水への左派社会党 の「返答」と趣旨を同じくするものである。この同じ年、総評事務局長の高野実が失脚して右派の 太田・岩井ラインが始まり(七月)、講和問題をめぐって分裂していた左派社会党と右派社会党の 再統一が行われ(十月)、自由党と民主党が合同して自由民主党が生まれた(十一月)。 いわゆる「五五年体制」の確立である。
こうした状況の中で、東京都砂川町の基地反対闘争は始まった。基地拡張のための強制測量実施を めぐって、警官隊と地元反対派・支援労組・学生が何度も衝突した。一九五六年十月十二日、十三日の 両日、負傷者千名を越える最大の衝突が起こり、翌十四日、政府は測量中止を決定した。『アカハタ』 編集部は、十五日に現地で座談会を開き、その内容を「砂川はこうして守られた」というタイトル で翌日から三日連続で掲載した。清水はその座談会に基地問題文化人懇談会のメンバーとして 出席し、こう発言している。
従来の基地闘争では、地元がまとまらず、支援勢力がばらばらだったことが敗北の根本原因だった。 すべてのグループが手をにぎったらという私たちの祈り、ねがいはそのたびにふみつぶされてきた。 今度その団結が実現されたことはやはり地元の偉大さのたまものだ(全員拍手)。この意味では 地元は個々の政治家より偉大だった。このプラスはたんに基地闘争だけでなく、日本民族をおしつぶそう とする勢力にたいする一切のたたかいにとって大きな意義を持つと思う。
通常の座談会というよりも、一種の祝宴であり、清水の発言も多分に御祝儀的な内容のものである。 しかし、注意すべきは、『アカハタ』主催の座談会であるにもかかわらず、清水がもっぱら闘争の 勝利を「地元の偉大さ」に求めている点だ。内灘闘争は支援団体の方針故に負けたが、砂川闘争は 支援団体の方針にもかかわらず勝った――おそらく清水はそう言いたかったのである。それと もう一つ、清水は全学連の活躍を高く評価している。このことは清水と同じ基地問題文化人懇談会 のメンバーとして座談会に出席した篠原正瑛が「砂川問題についての講演、執筆の謝礼は全学連に カンパしたいと話し合っています」と発言していることからも明らかである。全学連を代表して 座談会に出席した森田実は「わたしたち全学連はこの闘争の主力部隊である労働者階級の積極的闘争 に敬意を表し、また私たちがそれを促進する上で幾分なりともお役に立てたことをほこりに思って います」と謙虚な発言をしているが、負傷者の大半は学生であった。森田が「学生の表情はいままで のどの闘争よりも明るかったと思う」と述べるとき、そこには今回の闘争の真の立役者は自分 たちだという自負があった。全学連の指導者は共産党員だが、共産党本部(代々木)との対立を 深めつつあった。彼ら反代々木系グループは六全協が産んだ「鬼っ子」であった。清水は彼らの 同伴者として六〇年安保闘争に突入していく。
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一九六〇年五月二〇日未明、新安保条約は衆議院本会議で野党と与党反主流欠席のまま強行採決され、 六月十九日午前〇時、自然承認された。
清水は『週刊読書人』(七月二五日号)に「勝てる闘いになぜ敗けたか 安保反対運動総括のすすめ」 を書いた。清水にとって安保闘争は敗北以外の何ものでもなかったが、竹内好は「何よりも大事なこと は、人民の抵抗の精神が植えつけられたこと、そして予想よりその幅がひろく、根が深いらしいことで ある。私はこの一点だけで大勝利と判定する」と述べ(『週刊読書人』七月十一日号)、運動に参加 してきた人々の間ではこちらの方が定説になろうとしていた。それは「落選はしたが得票が伸びた から勝利である」というのに似ていると清水は思った。「私自身は、エネルギーの面から見れば 十分に勝てる筈の戦いが、指導部の方針によって負けたのだと思っている。トコトンまで闘った上 での敗北でなく、エネルギーの有効な組織化が避けられたための敗北であると思っている。」清水 にとって安保闘争は内灘村や砂川町でうんざりするほど見てきたことの大規模な再現であった。 安保闘争の中で、清水は全学連主流派を「極左冒険主義者」「トロキスト」と呼んだ共産党と 決定的に対立し、長年の盟友であった吉野源三郎とも決別した。以後、清水が翻訳と追悼以外 の文章を『世界』に発表することはなかった。
安保闘争の評価をめぐる「進歩的文化人」の内部対立を、「保守的文化人」は冷ややかに眺めて いた。福田恆存は「常識に還れ」(『新潮』九月号)の中で、「進歩的文化人」の常識の欠落に ついて皮肉たっぷりに述べている。
今の世の中には、ことに彼等には何もかも揃つてゐるのに、常識だけが欠けてゐる。(中略)常識とは 現実に随ひ、現実に教へられる考え方であり、生き方である。が、人々は現実に随ふ前に、現実を 解釈し解決することを急ぐ。その物差しにはあらゆる目盛りが刻み込まれてゐる。歴史、科学、 憲法、平和、進歩、民主化、市民、大衆の自覚、政治的関心、階級意識、等々、寸法書には一分の 狂ひもない。驚くべきことに、現実すらそれらの目盛りの一つと化している。
清水は「安保総括の会」を作って安保闘争とは何だったのかを徹底的に考えようとした。最初の会で の清水の報告は「安保戦争の『不幸な主役』――安保闘争はなぜ挫折したか・私小説風の総括」 というタイトルで『中央公論』(一九六〇年九月号)に発表された。さらに清水は、現代思想研究会 を作って平和運動の理論的支柱であったマルクス主義そのものを批判的に再検討するという作業に とりかかった。「新しい歴史観の出発」(『中央公論』一九六三年十二月号)はそうした作業の所産である。
マルクス主義の歴史観というものが、まだアメリカが問題にならず、まだロシアが問題にならず、 まだ日本が問題にならなかった時期、マルクスの生国であるドイツでさえ問題にならず、ただイギリス だけが問題であった時代に組み立てられたものであることを、われわれは真面目に考えた方がよいと 思う。アメリカが大きく現れても、ロシアが大きく現れても、日本やドイツが大きく現れても、 それらはマルクスの方式に何一つ影響を与えず、何一つ改訂を迫ることなく、ただ黙々として マルクスの方式の正しさを立証するだけであったのか。その正しさを立証するために、 アメリカ、ロシア、日本、ドイツの近代化は行なわれたのであるか。然り、と答えるのが職業で ある人間以外は、否、と答えるであろう。
「新しい歴史観の出発」が革新陣営――「然り」と答えるのが職業である人々――から批判 されたのは当然のことだが、「保守的文化人」の側もこれに強い拒絶反応を示した。彼らは 清水の従来の言説と今回の言説との間の大きな落差を問題にした。竹山道雄は「言論の責任」 (『自由』一九六四年一月号)の中でこう述べている。
思想が変わるということは、もちろんありうる。しかし、その意見によって社会的に影響をあたえた 以上、そこには責任を生ずる。誰かがその意見をきいて、誤解して、愚かしい行為に出たと いうような場合は、もちろん別である。いまいっているのは、そういう場合ではない。清水氏 が行なったのは組織的なアジ・プロだった。
もし認識が変ったのなら、これまでの言説について自己批判をし、おわびをし、ある期間は謹慎の意 を表して、その上であたらしい主張をすべきである。清水氏はこの手続きをしていない。あるいは どこか片隅でそれに似たようなことがしてあるのかもしれないが、氏のかつての活動に相応する ような自己批判はしてはいない。
それをしないで、再三再四、つねに世上の風潮の推移と共にたくみに体を交わせてゆくのでは、 じつに信用できないオポチュニストであるという感をもつほかはない。つねにスポットライトを 浴びた華手な指導者であろうとし、またあったが、またまたの転回を頬被りですますのは、 いかに何でもあまりにひどい。
竹山はこう述べた後で、「いわゆる清水一家の親分と子分のあいだでは、どういうことになっている のだろう」と問いただしている。二十世紀研究所以来の清水の同伴者、林健太郎は、清水はこれまで 一度もマルクス主義者であったことはないのだから、転向という非難はあたらない、むしろ平和運動 の教祖として扱われていた時代が本来の清水からの逸脱期であって、今回のことは「蕩児の帰還」と 見るべきであると述べた(『潮』一九六四年三月号)。一般に、清水の同伴者だった人々は、戸惑い ながらも、安保闘争前後の清水に何らかの連続性を見出すことで、彼の軌道を理解(ただし、 必ずしも容認ではない)しようと努めた。かつて清水は「体験と内省」を書き、それが大熊信行 に認められたことで、「戦中と戦後の間」の問題にけじめをつけ、「戦後」に足を踏み入れること ができた。しかし、安保闘争という「戦争」の後に清水が書いた一連の文章は、第二の「大熊信行」 をもつことができなかった。「戦後」への移行の手続きが不十分なまま(と周囲の者には見えた)、 清水は「出発」したのである。
清水は書斎の人となり、マルクス主義をその一部として含むところの二〇世紀思想の全体を批判的 に再検討するという大きな仕事に取りかかった。『現代思想』(一九六六年)では、十九世紀風 の大思想大系の崩壊過程として二〇世紀の思想が語られ、『倫理学ノート』(一九七二年)では、 「人間の幸福」という問題が「科学」の外部に排除されていった過程が考察された。二冊の本は 数多い清水の著作の中で最もアカデミックな、しかも非常に高い水準のものである。二冊とも出版社 は岩波書店。伊東冬美の「清水研究室の十四年」(『中央公論』一九八八年十月号)の中に、 『倫理学ノート』の出版直後、岩波書店が清水を銀座の料亭浜作に招待し、そこで清水と吉野源三郎 が「やあ、暫く」と長い握手を交わす場面がある。「お二人の握手は、(中略)清水先生に向けられて いた「転向者」という非難を和らげるもののように、私には思われた」と伊東は書いている。 『現代思想』と『倫理学ノート』は遅れて提出された「体験と内省」であった。この二冊の本を 書くことで、清水はようやく移行の手続きを終わらせたように見えた。
しかし、『倫理学ノート』の翌年(一九七三年)に発表された「天皇論」(『諸君!』三月号)、 そのまた翌年(一九七四年)に発表された「戦後の教育について」(『中央公論』十一月号)、 そして『諸君!』(一九七三年七月号〜一九七五年七月号)に連載された自伝『わが人生の断片』は、 清水に再接近していた人々を彼から再び遠ざけ、戸惑いながらも清水にずっと同伴してきた人々 の多くを突き放した。清水は「天皇論」で天皇制を擁護し、「戦後の教育について」で教育勅語 を再評価し、『わが人生の断片』で基地反対運動や安保闘争の内幕を赤裸々に語った。 「進歩的文化人」のグループがア・プリオリに負の記号を付けてきたもの、タブーとしてきた ものに、清水は触れたのである。
清水の「右旋回」はそれで終わらなかった。清水はさらに「戦後を疑う」(『中央公論!』一九七八年 六月号)で治安維持法を弁護し、ついに「核の選択――日本よ国家たれ」(『諸君!』一九八〇年 七月号)では、核武装の可能性を含む軍事力増強論を唱えるに至った。清水の「戦後」批判は、 戦後の思想が批判していたものを再評価する方向へ一方的に進んだ。確かに否定の否定は肯定で ある。しかし、これは単一の命題についての論理であり、「戦後」という複合的命題については 適用できない。「戦後」批判を行ないつつ、戦後の思想が批判していたものを従来とは 別の視点から批判するという方向は可能性としては存在していたはずである。 しかし、清水は単純明快な方向を選んだ。
一九四九年から一九六〇年までを「清水幾太郎の時代」と呼ぶとすれば、一九八〇年は 「清水幾太郎の年」であった。私はこの小論を書くために戦後の月刊誌・週刊誌・新聞等に 載った長短さまざまの「清水幾太郎」論を集めたが、一年単位でみるならば、「清水幾太郎」 が一番多く語られたのが一九八〇年である。しかし、それはつかの間のことで、翌年には、 何ごともなかったような静寂が訪れた。それは言論の世界で「清水幾太郎」がア・プリオリに 負の記号の付いた存在になったことを意味した。
5
清水の死から十年の歳月が流れた。昨年(一九九七年)、山川出版社から出た『日本史広辞典』 に「清水幾太郎」の名前が載っていなかったことは、彼が「忘れられつつある思想家」であること を強く印象づける出来事だった。
最初、何かの間違いではないか、と私は思った。『日本史広辞典』に載っている「清水」姓の人物は 十一名。「清水次郎長」以外はその分野の専門家でない限り名前を知らない人物である。 一人を除いて、すべて十九世紀以前の生まれの人物で、もし「清水三男」という歴史学者の名前が なかったら、「清水幾太郎」が載っていないのは、彼が「最近の人」であるからだろうと、 勝手に納得したかもしれない。しかし、清水三男は一九〇九年、清水幾太郎よりも二年遅く 生まれた人である。二人は同時代人である。もっとも、それは途中までの話で、清水が一九八八年、 八一歳まで生きたのに対して、清水三男は終戦の二年後、一九四七年に三八歳で亡くなっている。 人は何年に生まれたかではなく、何年に死んだか、あるいは何年頃活躍したかで、人々の記憶に 残るものである。その点では、清水三男は「昔の人」であり、歴史辞典に名前が載る資格があるのかも しれない。それに「まえがき」によれば、辞典刊行のための編集委員会が組織され、九〇〇余名 の執筆者に原稿を依頼してから、辞典完成までに十数年かかったそうだから、企画の時点では 清水幾太郎はまだ存命中であり、存命中の人間を項目として立てることは通常はしないのが 歴史辞典の作法だとすれば、清水幾太郎は人名項目としては非該当の人物として扱われ、そして 編集作業の途上で彼が亡くなっても、追加の原稿依頼は行われなかった――ということなのかも しれない。それなら一応話のつじつまは合う(ただし、私が編集委員なら追加の原稿依頼を行なったであろう)。
しかし、この推測は間違っていた。辞典の他のページをめくって見ると、清水と同時代人で、 同じ頃に活躍し、しかも清水よりも後に亡くなった人々、たとえば、川島武宜、大塚久雄、 福田恆存、丸山真男らの名前があったからである。存命中の人間は載せないというのも勘違いで、 宮本顕治や大江健三郎の名前は載っていた。
出生年も死亡年も関係ないとなると、清水幾太郎の名前が『日本史広辞典』に載っていない理由は 一つしか考えられない。彼は「歴史に名を残す」べき人物ではないと編集委員会が判断した (あるいは、そういう議論の俎上にも上らなかった)ということである。ある人物が「歴史に名を 残す」かどうかは決して自然に決まるわけではない。その人物を「歴史に名を残す」べき人物である と歴史家が考えるかどうかによって決まるのである。川島武宜、大塚久雄、福田恆存、丸山真男ら の名前が載っていることに異論はない。宮本顕治と大江健三郎の名前が載っていることにも 異論はない。しかし、清水幾太郎が「歴史に名を残す」べき人物ではないという判断は間違っている、 と私は思う。
山川出版社の『日本史小年表』は携帯に便利なので、私は愛用している。しかし、この年表には一つ 欠点がある。それは一九二八年六月二九日に「治安維持法改悪」と書かれている点だ。 これは「治安維持法改正」でなくてはならない。「治安維持法改正」とは一九二五年四月二二日 に公布された治安維持法では最高刑が「十年の懲役」となっていたところを、「死刑又は無期 」に引き上げたことをいう。治安維持法は悪法であるから、その改正は「改悪」を意味する、と 言いたい気持は分かる。しかし、それは教師が授業の中で言えばいいことであって、あらかじめ 年表に書くべきことではない。一旦そういうことをしてしまったら、他の法改正についても同様の チェックをしないわけにはいかなくなるが、『日本史小年表』はそれはやっていない(まさか、 チェックはしたが、治安維持法改正以外のすべての法改正は「正しい」ものだったというわけでは あるまい)。こうした「細工」を年表に加える出版社から出た歴史辞典に、治安維持法を弁護した 「清水幾太郎」の名前が載っていないのは当然のことなのかも知れない。
十年前、久野収は『朝日新聞』に寄せた追悼文の中で「清水さんの戦後の学問と評論と運動を いま一度検証し直す仕事は、後輩のわれわれに託されてしまった」と語った。しかし、その仕事 はいまもほとんど手つかずで、わわわれの前に放置されている。
・ なお、本論文は文部省科学研究費補助金(基盤研究C2)「清水幾太郎とその時代」 (課題番号09610211)、ならびに早稲田大学特定課題研究助成費(個人研究) 「近代日本の知識人」(課題番号98A525)による研究の成果の一部である。
・ 早稲田大学文学研究科紀要 44号 第一分冊(1999年2月発行)に掲載。