典型的役割と役割パフォーマンスの違いから現れる個性

 

                              吉原 功兼

 

1.はじめに

 

 私の妹が今春、大学に入学した。祝い事の好きな両親はいつもの調子で喜んでいた。私はうれしい気持ちもあったが、自分自身の大学入学のときのことを思い出して懐かしい気持ちになった。懐かしい気持ちになったのは、妹が私にこんなことを言ったからだ。

「大学という新しい環境に入るにあたって、どんなキャラでいったらいいか」

そんなニュアンスの一言だった。三年前、私が大学に入学したときも妹と同じようなことを思っていた。きっと親しくなるであろう語学のクラスでは、どうやって振舞えばいいのか。サークルで、見ず知らずの先輩に話し掛けられたらどうしよう・・・。私も、集団内での自分自身の役割がまったく決まっていないことに、そんな不安を少なからず感じていた。ただ、大学三年間が終わり、自分の所属している集団の中で自分の役割をある程度うまく振舞える今なら、そんな三年前の自分の気持ちを“懐かしい”ものとして語ることができる。

 しかし、来年大学を卒業し、新しい環境で生活することになる今、私は、この妹の一言を“懐かしい”ものとして聞き流していていいのだろうか。きっと、新しい環境が迫ってくるにつれて、妹の一言を他人行儀ではいられない自分自身に気づくことになるだろう。新しい環境内で、自分に与えられる役割に私はどう振舞っていけばいいのだろうか。このことを契機として、私は卒業論文で役割論をテーマに扱うことにした。そして、それこそが、現時点での私の「それをやらなければ生きてゆけないテーマ」でなのである。

そして、その役割論の中でも、他者から期待される役割の中で葛藤し、その結果、どのような役割パフォーマンスをするのかという部分にスポットを当てる。なぜならば、この葛藤の中でとった自分の行為こそ、彼のもっとも彼らしい行為と思えるからである。

 

2.  ゴフマンの役割理論

 

まず、役割論をやるにあたり、ゴフマンの『出会い』を参照してみた。そもそも、役割とは、ゴフマンの言葉を借りれば、在職者が、彼の位置にある者に課せられる規範的な要請との関係だけで行為しなければならないとした場合に、携わるであろう活動からなるものである(ゴフマン,1985)とある。医者は、患者を救わなくてはならない、警察は犯罪を取り締まらねばならない・・・といったように規範的な要請に従って、在職者は自らに与えられた職を全うしようとするものである。また、この役割論を語る上で欠かせないものが、人々の属するカテゴリーの存在だ。役割というものは、何もないところから出てくるものではなく、ある状況にかかわりのある準拠システム(集団や組織)の行程が頻繁に繰り返されることで、状況にかかわりのある役割がはじめて現れてくるものなのである。

先程、規範的要請にしたがって行為するといったが、この規範的要請に忠実に従った役割を典型的役割という。医者は、患者を救わなくてはならない、警察は犯罪を取り締まらねばならない・・・といったようなものだ。しかし、これは、実際に在職者がする、実際上の役割パフォーマンスとは異なる。極端なことを言えば、エイズ訴訟で問題にもなったように、医者は患者を実験台に使うことだってあるし、警察が犯罪を起こすことだってある。というのも、典型的役割は、人々が期待する一般的な役割のことであって、役割を演じる当本人にとっては、典型的役割を吟味した上で、役割パフォーマンスをするからである。そして、この典型的役割と役割パフォーマンスの相違に、私は、行為者の個性がうかがえると思う。ゴフマンは役割距離の考え方で、個人は役割に対する愛着の欠如を隠すために、役割を受け入れるふりをすることがあると述べているが、個人は、人々の期待通りの役割を演じきれるとは限らない。期待通りの役割を演じたくても、演じることが物理的に不可能になってしまった人もいる。

 

3.今中投手の典型的役割と役割パフォーマンスの違い

 

かつて、中日ドラゴンズに今中慎二という投手がいた。1989年に中日ドラゴンズにドラフト一位で入団し、エースとして剛速球と多彩な変化球を武器に、1993年には沢村賞、最多勝、最多奪三振賞、ゴールデングラブ賞、ベストナインと投手タイトルを総なめにするが、1996年の開幕直後、原因不明の左肩痛で、登板回数が減っていき、結局2001年、30歳の若さで解雇、そのままファンに惜しまれながらも引退する。今中選手は、自らのプロ野球人生を著書「悔いはあります」の中でこのように語っている。

 

93年シーズン前後、良かった時のピッチングを一軍のマウンドで再現したい」

97,98の二年間は、そればかりを追い求めていた。肩の状態を何とか元に戻して、再び140キロの以上のストレートを投げられるようになりたい、と。(中略)そうこうする間に二年も過ぎ去った。ならば、今度は、140キロのストレートを取り戻すのではなく、一軍で通用するボールを放れるようにしよう。僕は、考え方を切り替えた。球速は130キロでもいい。その代わり一軍で通用するためには、ボールに切れが伴っていなくてはならない。僕は、140キロ台のストレートを二年間追いかけてきた。ずっとスピードにこだわってきた。でも、この状態のままではそれも難しい。(中略)

スタイルを切り替えようとブルペンで試みる。かつてのピッチングは、とりあえず棚上げしよう。そして、今の自分が投げられる最高の球で勝負しよう。そう思ってブルペンで投げ込んだ。調子は悪くなかった。だが、周囲にはわかってもらえなかった。

監督やコーチをはじめ、周りの人たちは、僕の全盛期を知っている。だから路線変更になかなか理解を示してくれないのだ。

ブルペンで投げるボールを見て言う。

「まだまだだな」と。

自分では切れのある球を投げているつもりだった。それでも周囲は、どうしてもわかりやすい球速で評価しようとするのだ。

プロ野球選手は、医者や警察とは違い、個人の名前で仕事をする職業である。この特殊な環境に置かれ、今中投手は、エース・剛速球などといった今中投手特有の典型的役割を演じることを期待され続ける。それは、選手自身が怪我をし、選手として生き残るために自ら役割パフォーマンスを変更することを余儀なくされたとしても、である。

 

4.おわりに

 

役割という概念が社会生活に応用されるときに、二つの問題が生じると述べられている。ひとつは、特定の人に対する人々の彼への期待に、コンセンサス(合意)の欠如をいかに盛り込むのかであるということ。そして、もうひとつは、そういった特定の諸個人をいかに取り扱うかである(J.Aジャクソン,1985)とある。また、ゴフマンは役割を研究するときには、特定の分析カテゴリーにある誰かの状況を研究すべきであると述べている。

以上の点の考察をさらに深めながら、役割論を卒論テーマで扱うにあたって、あくまで、典型的役割と役割パフォーマンスの違いからどのような個性があらわれるのかということを、さまざまな人々の属するカテゴリーを分析することで見ていきたいと思っている。

 

引用・参考文献

Eゴフマン,1985,『出会い』,誠信書房

 J.Aジャクソン,1985,『役割・人間・社会』,梓出版

 今中慎二,2002,『悔いはあります』,ザ・マサダ

 

質疑応答

 

Q:3の「今中投手の典型的役割と役割パフォーマンスの違い」の中で「今中投手特有の典型的役割を演じることを期待され続ける」とあるが、個人に対して、典型的役割というものは表現してもいいのか?

A:そういった表現の仕方はおかしいです。ゴフマンは『出会い』の中で、役割は、特定の位置における典型的反応であると規定することがある、と述べています。このように、役割という考え方は、“特定の位置にある”ことが前提です。個人という単位で、特定の位置になりえることはなく、医者、警察、教師…といったような社会で特定の位置にある、具体的な職業に、典型的役割というものが付与されます。この今中投手の例を挙げるのであれば、「エース」の典型的役割という使い方のほうが正しいです。

 

Q:3の「今中投手の典型的役割と役割パフォーマンスの違い」の中で今中投手は怪我した後も、エースとしてのピッチングを期待されていたのか? 怪我をした時点で、もうエースとしてのピッチングは期待されなくなってしまったのではないか?

A:今中慎二著の『悔いはあります』の中では、「監督やコーチをはじめ、周りの人たちは、僕の全盛期を知っているから路線変更になかなか理解を示してくれない」「自分では切れのある球を投げているつもりでも、周囲は、どうしてもわかりやすい球速で評価しようとする」といった記述が見受けられることから、今中氏の語りの中ではエースとしてのピッチングを周囲が期待していた、というのは事実であると思います。しかし、問題なのは、この記述が今中氏の発言からのみであり、今中氏以外の人物からそのような発言がえられていないということです。今中氏は自分自身の全盛期と怪我後の自分とを照らし合わせて、全盛期の自己イメージとのずれ埋めるために、「他者からはエースとしてのピッチングを期待されているはずだ」と自分の中で解釈したのかもしれません。こう考えると、怪我をした後の他者からの評価は、なんともいうことができません。今中氏が自己イメージをずれを埋めるために、彼自身で解釈をしていた可能性も考えなければなりません。

 

Q:1のはじめにのなかで出てきた「キャラ」は、「役割」とは違うのか?

A:「役割」には大きく分けて二つあります。フォーマルな役割とインフォーマルな役割です。フォーマルな役割というのは、今まで述べてきた、あるカテゴリーの中で、社会を円滑に進むために人々から期待される役割のことです。そして、この「キャラ」というのは、インフォーマルな役割に含まれます。今回の発表では、インフォーマルな役割についてはほとんど述べてきませんでしたが、この論文では、個人が、人々に期待される典型的役割をパフォーマンスする際に生じる違いをその個人の「キャラ」とし、様々なカテゴリーそ対象として分析していく予定です。よって、この「キャラ」の部分についても考察していく必要があります。これから、インフォーマルな役割についての文献を読み、さらに、ゴフマンが「キャラ」については、どのような見解を示しているのかについても同時に考察していくことにします。

 

Q:卒論は、ゴフマンの理論理解をゴールにするのか、それとも、ゴフマンの理論理解を中心にすえて、今回の今中選手のような様々な例を出していくことがゴールになる論文になるのか、どちらか?

A:後者です。私は、様々なカテゴリーに属する人のなかから、そのカテゴリーに属する個人にスポットを当てて、ゴフマンの理論理解を深めていきたいと思っています。時間に余裕があるのならば、人から期待される典型的役割にどう応えていいか(どう役割パフォーマンスすればいいか)一番悩むであろう、新しい環境を迎えた人(新入社員の方など)または、今回の今中選手のように、自分の自己イメージと現実とのギャップに悩むような人(入院患者の方など)などに、インタビューを試みてみたり、一つ一つの例を大事に扱って、ゴフマン理論を説明する論文にしたいと考えています。

 

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以上