あ る 詩 と の 再 会
―研究室だより・2000年夏―
ずっと気になっていた詩があった。その詩と出会ったのは中学生の頃だから、もう30年も前のことになる。 国語の参考書に載っていたのだと思う。作者の名前も作品のタイトルも忘れてしまったが、その詩 から受けたある種の気分(感動といってもかまわないのだが、いわゆる感動とは少し違う気もする) だけは消えずに残った。
詩の内容は、一人のサラリーマンが通勤途中の駅のホームにただずんで、見なれた町の風景を眺め ながら、自分のこれまでの人生に思いをはせる・・・・というようなものだったと記憶している。 それは教科書に載っている詩、言い換えれば、中学生が読むのにふさわしいと一般に思われている ような詩、たとえば高村光太郎の「道程」(僕の前に道はない・・・・)とか、三好達治の「雪」 (太郎を眠らせ、太郎の屋根に雪ふりつむ・・・・)とか、宮沢賢治の「永訣の朝」(けふのうちに とほくへいつてしまうわたくしのいもうとよ・・・・)とはずいぶんと違っていた。それは 青春の詩ではなく、メルヘンでもなく、愛と哀しみの詩でもない、中年のサラリーマンの 淡々とした日常の中にふとこみ上げるほろ苦い感情をモチーフにした詩だった。中学生の私は そこに「人生」を感じたのであろう。
その後、何度か、あの詩をもう一度読んでみたいという思いに駆られて、名のある詩人たちの詩集を 手当たり次第にめくってみたが、捜し出すことはできなかった。そうやって30年が経ってしまった。 もしあの詩が有名な詩人によって書かれた有名な詩であれば、どこかで再会していいはずである。 偶然の出会いと見えるものは、実は、出会いを求める無意識の(しかし持続的な)欲求という 主体の側の条件と、出会いの対象となるものが存在する(しかも主体から接近可能な距離の範囲内に) という客体の側の条件がそろったときに、必然的に(という言葉が強すぎるとすれば、蓋然的に) 生じる現象なのだというのが、私が提唱する「ライフコースにおける転機の理論」の骨格をなす 考え方である(『ライフコース論』1995年)。とするならば、再会を求めながらそれを果たせず にきたのは、あの詩は名のある詩人の作品ではなかった(故に接近不可能)ということなの だろうか・・・・。いよいよとなれば、あの詩が載っていた参考書の版元(たぶん旺文社か学研で あったと思う)に問い合わせて、当時の資料が残っていないかどうか調べてもらうという手段が ないわけではないが、学術的な調査のためならいざしらず、私事でそこまでやるのはさすがに常軌を 逸していると思われ、諦めの境地に片足を踏み入れていた。
しかし、つい先日、ひょうんなことからついにその詩と再会することができたのである(!)。 早稲田の第二文学部で担当している演習で、あるグループが電車の優先席をテーマに取り上げて、 実際に車内で観察や実験などをしているのだが、彼らと居酒屋で話をしているときに、吉野弘 という詩人に「老人に席を譲る若い女性」をモチーフにした「夕焼け」という作品があると いう話を私がしたところ、彼らはその詩を知らなかったが、その詩に興味をもったようで、その晩、 「夕焼け」が載っている詩集の名前を教えてほしいというメールが届いた。で、さっそく返信の メールを出して、思想社から出ている「現代詩文庫」というシリーズの中の一冊、『吉野弘詩集』 であることを知らせた。そのとき私の手元には数ヶ月前に地元の古本屋で一冊400円でまとめ買い をした7冊の「現代詩文庫」があった。買ったときにザッと目を通していたのだが、改めて 手にとってパラパラと頁をめくっていたら、ある作品の前で、「あれっ?」という感じで手が止まった。
陸橋
風は煤煙の臭ひをふくみ、このあたりをさうさうと流れる
おれは陸橋に立ち
夕暮れの町の
何もかも騒がしいひびきをきいてゐる
右の方には低い家々がかさなり
その向うにつづく煤煙と音響の地帯−工場が並んでゐる
左に見える小さな木立
むき出しの赤い崖
陸橋の下には南北のレールが伸び あそこにはシグナルの灯がかすむ
見なれた町−煤煙の音響の地帯の夕暮れよ
工場への行きに
帰りに
いくたびおれはここに立ち
いくたびこの橋を渡ったことか
ある日は雨が降りそそぎ
ある日はビラをしのばせた男が渡り
明け暮れ女工たちの色青ざめた顔を見る陸橋よ
とぎれてはつづく人々の流れ
橋板を打ち 橋板にひびくその足音の流れ
一人黙々と行くもの
声高な話声を残すもの・・・・
流れ行き 過ぎさる人々の往き来の間に立って
おれは愛する町を見る
休む日なく
おれを工場へと通わせる橋よ
おゝ 歌声たかく橋板をとどろかし
おれらが渡り行くその日はいつだ
おゝ 百万の人のむれの 波立つ足音をひびかせて渡るその日はいつだ
薄あかりの橋に立つおれに
風はさうさうと吹いてくる・・・・
夕暮れどきのもの騒がしい町のあたり−はるか右手に長屋の家々
駅のかなたに並ぶ黒い貨車
それら見なれた親しいもののうへに
工場のひびきに戦ひ生きるもの おれは
かくも親しい一ときの思ひを拡げる
遠くけぶり
はるかに暮れてゆく町・・・・その向ふの
工場の窓に灯がついた
居残りする兄弟たちの 職場の窓に灯がうつる・・・・
詩人の名は伊藤信吉。そうだ、思い出した。あの詩のタイトルは「陸橋」、作者は伊藤信吉だった。 ただし参考書に載っていた詩はこんなに長い作品ではなかった。おそらく私が見たのはこの詩 の一部(前半)だったのだろう。なんてことだ、詩の一部だけを載せるなんて! 中学生用の 参考書とはいえ、どうせ載せるならちゃんと全部載せてほしかった。これでは短歌の上の句だけを 載せるようなものではないか。おかげで私はとんだ勘違いをしてしまった。男の立っている場所 が駅のホームではなく、線路の上の陸橋だったというのは、私のたんなる勘違い、記憶の変容 だが、「中年のサラリーマンの淡々とした日常の中にふとこみ上げるほろ苦い感情をモチーフ にした詩」というふうに、まるで山田太一のTVドラマの一場面のように受け止めていたのは、 作品の全体を読んでいなかったための完全な誤読で、「陸橋」は正真正銘のプロレテリア文学 である。闘う工場労働者の詩である。
巻末の「年譜」によれば、伊藤信吉は1906年の生まれで、この「陸橋」は彼の最初の詩集『故郷』(1933年) に収められている作品、すなわち昭和戦前期の作品である。治安維持法というものが存在した時代に、 このような詩集を刊行することがどれほど覚悟のいる行為であったかは説明するまでもあるまい。 事実、『故郷』は××××(伏せ字)でいっぱいだ。同じ詩集の別の作品から判断するに、「陸橋」 は群馬県の高崎駅付近の情景を詠んだ作品である。中学生の私がこの詩(の前半)を読んで心ひかれた のは、私の中学校があった蒲田駅付近の風景とよく似ていたからだと思う。蒲田駅の川崎寄り に大きな陸橋があり(これはいまもある)、その上からは新潟鉄鋼の大きな工場(これはいまはない) が見えた。私がそこで見ていたのは高度経済成長期の京浜工業地帯の風景だった。伊藤信吉の 「陸橋」をそういう身近な風景の中で勝手に読み替えたいたわけだから、これはとんだ 時代錯誤というほかはない。
「陸橋」と再会することができ、私は嬉しいような、淋しいような、不思議な気分になった。 しかし、伊藤信吉という詩人を「発見」したことは収穫だった。最後に『伊藤信吉詩集』から 好きな作品を一つ紹介しておこう。
略歴
しん 父はは、近親者はそう呼んだ。
しんちゃん 村人、幼な友だちは村訛りで。
しんこぼたもち 悪態ついた悪童たち。
しんきち 二十歳 徴兵検査官は呼び捨てで。
いとう 二十七歳 特高警察は留置所で。
しんきち 三十六歳 戦時徴用官は権力づらで。
おとうさん 家族たちは暮しの座で。
しんきちさん わかい娘がそう呼んだ。
おじいちゃん、おじいちゃん 孫むすめは遊び相手を呼ぶ声で。
そして、
おれは
おれで。
そんなわけで
伊藤君。
このあと幾つ、私の呼び名は残ってる。
詩集『上州』(1976年)より