通勤電車のメモリー from 蒲田 to 早稲田
―研究室だより・2001年夏―
13年ぶりに生まれ故郷の蒲田に帰ってきて、通勤ルートがそれまでの原木中山―早稲田(東西線)から、 蒲田―東京(京浜東北線)・・・徒歩5分・・・大手町―早稲田(東西線)へ変わった。 自宅―大学間の所要時間は5分ほど短くなった(それは主として自宅から駅までの距離が短く なったことによる)。その点はいいのだが、京浜東北線は行きも帰りも混んでいて、座れないことが よくあり、とくに疲れて帰るときは―疲れていないときはまずないのだが―身体にこたえる。それで 東京で京浜東北線に座れそうにないときは、空いている山手線で品川まで座って行き、そこで 京浜東北線に乗り換えて、品川―蒲田の10分間だけ立つことにしている。
ずいぶんと中年じみた話から始まってしまったが、大学生・大学院生・オーバードクター時代の11年間 を通学定期で通った同じルートをいまは通勤定期で通っている。車窓の風景もずいぶんと変わった (車窓に映る自分の姿も)。しかし、もちろん何もかもが変わったわけではなく、まったく 変わらない風景もそこここにあって、長いはずの歳月が一瞬のものにすぎないと感じることもある。
蒲田から早稲田までの間には両端の2つの駅を含めて15の駅がある。蒲田、大森、大井町、品川、 田町、浜松町、新橋、有楽町、東京、大手町、竹橋、九段下、飯田橋、神楽坂、早稲田である。 降りたことのない駅(=改札を出たことのない駅)は1つもない(ちなみに13年間通った 原木は中山―早稲田間には降りたことのない駅が、南砂町、木場、東陽町、門前仲町、と4つもある)。
竹内まりあの名曲「駅」や、倉本聰脚本、降旗康雄監督、高倉健主演の名作『駅 STATION』を 引き合いに出すまでもなく、「駅」という言葉には物語を感じさせるものがある。人生そのものが しばしば旅にたとえられるせいかもしれない。
というわけで、今回の「研究室だより」は大学への往き返りの通勤電車の15の駅の小さな物語である。
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@蒲田
現在の蒲田駅は西口のサンカマタと東急プラザ、東口のパリオと3つの駅ビルに囲まれている。しかし、 これから語る蒲田駅は、それら3つの駅ビルが建つ以前の昭和30年代前半の木造の駅舎である(昭和31年に作られた小津安二郎監督の映画『早春』の中にこの駅舎が登場する)。
当時、私はまだ就学前の子供だった。ある日の夕方、私は母に連れられて駅前の市場に買物に出た。テント 用の防水布をアーケード代わりにした終戦直後の闇市に毛が生えたようなおんぼろ市場だったが、私はそこに充満する人々の活気が好きだった。とくに惣菜屋の店先のカレー風味の肉団子(一串に3個)は 私をそこに立ち止まらせるに十分な魅力を備えていた。
その日も例によって惣菜屋の前で立ち止まっていた私は、周囲に母の姿がないことに突然気がついた。 こういう場合の子供の心理は誰もが経験したことがあるだろう。まず「ガーン!」と体の奥で音がして、 次に「もう二度と母に会えないのではないか」という不安が急激に襲ってくる。私は母の姿を求めて市場 の中を右往左往し、西口の駅前広場に出たところでついに泣き出した。
私の周りに人垣ができた。駅前の交番の若いお巡りさんがやってきて、私を交番につれていった。生まれて 初めて入った交番の中はとても狭かった。お巡りさんはさっそく私に質問した。「君の名前は?」 「君のおうちはどこ?」私は自分の名前はいうことができたが、住所を言うことはできなかった。 交番の前の群集は事のなりゆきを固唾を飲んで見守っていた。「おうちまでの道はわかる?」と お巡りさんは角度を変えて質問してきた。素晴らしい質問だった。私は泣きながら(ずっと泣いていたのだ) 「うん」と頷いた。「よし」とその若いお巡りさんは言った、「僕が君をおうちまで連れて行ってあげよう」。 そう言うと彼は私をひょいと肩車し、交番の外に出た。群集の間に安堵の空気が生まれ、彼らは 三々五々散っていった。お巡りさんに肩車されて見る夕暮れの駅前広場はとても広かった。 「どっちだい?」「あっち」という問答を何回か繰り返しながら、彼は私をうちまで送り届けてくれた。 うちでは母が買物の途中ではぐれた息子の帰りを心配しながら待っていた。
以来、私は曾根史郎の歌う『若いお巡りさん』(昭和31年)という歌が好きになり、長じては、 警官のことを「国家権力の犬」と呼ぶような人間とは相性が悪くなった。
A大森
中学1年のときの担任のK先生は英語が専門だった。しかし、K先生の英語には東北訛りがあって、 初心者のわれわれも「これは正しい英語の発音ではないのではないか」という疑念を拭い去ることができなかった。
K先生は大森山王に住んでおられた。夏休みのある日、何人かの級友と先生のお宅を訪ねた。 先生のお宅は団地の2DKであった。そこに奥さんと小さな息子さんの3人でつつましく暮らして おられた。中学校の先生の給料は存外安いのかもしれないと、われわれは出されたスイカを食べ ながら心の中で思っていた。
卒業後、K先生とは年賀状のやりとりがずっと続いて今日にいたっている。私の結婚式にも来ていただいた。 恩師ということでどっしりと座っていて下さればよいのに、ビール瓶をもって各テーブルを回る姿 にK先生の飾らないお人柄を感じた。
K先生からいただく年賀状の住所は30年間ずっと変わっていない。もうそろそろ定年の年齢の はずだが、先生はずっとあの団地の2DKに住んでいらっしゃるのだ。「清貧」という言葉がふさわしい先生である。
B大井町
中学1年の同級生に「ランチ」と呼ばれる男子がいた。彼の姓は前田で、当時の人気商品「前田のランチ クラッカー」(いまでもあるのだろうか?)から取ったニックネームである。彼の家は母子家庭であった が、そうしたことの暗さを少しも感じさせない明るくさわやかな性格の奴だった。
卒業後しばらくして、彼の母親が大井町の駅のホームから落ちて電車に轢かれて死んだという連絡 が電話で回ってきた。私は当時の級友たちと斎場へ駆けつけた。弔問の客たちに黙礼をしていた彼は、 私たちに気づくと私たちのところへやってきて、「まいったなあ」と呟いた。体の中心から絞り 出したような言葉だった。私たちには返すべき言葉がなかった。
その次に彼に会ったのは、10数年後のことだった。私が鎌倉の小町通を歩いていると、突然一人の男 が駆け寄ってきて、「大久保君だよね。俺だよ、前田。ランチ。」「ランチ!」私はすぐに彼だとわかった。 しかし、そのとき彼は会社の同僚と営業回りの途中で、一方、私は後に妻となる女性とデートの最中 だった。私たちは短い会話を交わし、「じゃあ、また。」と別れた。彼、ランチにはそれ以来会っていない。
C品川
村上春樹のデビュー作『風の歌を聴け』が出版されたのは1979年である。しかし、私がこの作品を読んだ のは、それから3年後の1982年、作品が文庫(講談社文庫)になったときである。当時、私は28歳、 大学院のドクターの3年生だった。大学の生協の書店で文庫化されたばかりの『風の歌を聴け』を買い (文庫の奥付は昭和57年7月15日となっている)、帰りの電車の中で読み始め、たちまちその クールな文体の虜になった。
「しかし、それでもやはり何かを書くという段になると、いつも絶望的な気分に襲われることになった。 僕に書くことのできる領域はあまりにも限られたものだったからだ。例えば、象については何かを 書けたとしても、象使いについては何も書けないかもしれない。そういうことだ。」
ふと本から顔を上げると、電車は品川駅のホームに停まっていた。私は先頭の車両に乗っていた ので、外のホームには屋根がなく、夏の光はホームを熱く照らしていた。開いたドアから夏の風が 冷房の効いた車内に入ってきた。私はそのとき確かに風の歌を聴いた。以来、村上春樹は私の 好きな作家の一人になった。
D田町
私がこれまで非常勤講師をしたことのある大学は、東洋大学、文教大学、武蔵大学、聖心女子大学、 慶応義塾大学、流通経済大学、お茶ノ水大学である。ここ田町は慶応大学文学部で教えた1年間、 週に1度乗り降りした駅である。
慶応の授業は2限で、早稲田で3限の授業をもっていたので、昼食を落ち着いて食べた経験が ない。そのせいでもないのだが、慶応大学についてはあまりよいイメージをもっていない。 世間で早慶は折にふれて比較されるが、私が教室で教えた実感では、早稲田の学生の方が 慶応の学生よりも優秀である。第一に、授業中の集中力が途切れることがなく、第二に、 授業の内容についての質問が的を得ており、第三に、私の冗談に間髪を入れず笑ってくれる。
先日、早稲田大学文学部のホームページの書き込み用掲示板に、ある高校生が「慶応と早稲田、 どちらにしようか悩んでいます」という投書があった。私は「そんなことで迷っているような者 はさっさと慶応に入ってくれ」と返信したかったが、教務主任という立場上、辛うじて我慢した。
E浜松町
大学3年の夏休み、私は初めての海外旅行に出かけることになった。いま考えると愚かきわまり ないのだが、私の旅行鞄の中には中央公論社『世界の名著』が何冊も入っていた。大変な重量 である。浜松町で降りて、重い旅行鞄をひきずりながら、羽田空港行きのモノレールの改札口 へ向かうべく、階段を登った。
旅行のコースは、ギリシャ(アテネとエーゲ海のクルーズ)から始まって、ヨーロッパの主要な 国々を網羅するものだった。昼は街を散歩し、夜は宿で本を読む。きわめてシンプルな計画で ある。で、宿で読むための本を日本から持っていったわけだが、本の選択には一貫した方針が あり、たとえばギリシャ滞在中はプラトンを読み、フランス滞在中はオーギュスト・コント (社会学の父)を読み、というようにそれぞれの本をその著者の国で(ただし日本語で)読むということである。
当時、私は大学院へ進み、将来は社会学者になることを夢見ていた。しかし、自分にそれだけの 才能がはたしてあるのか。自負と危惧とが交互に訪れる毎日だった。そうした気持ちの揺れに けりをつけること。それがこの初めての海外旅行の目的だった。プロの研究者になるための 第一歩は、重い旅行鞄のせいか、ずっしりと記憶に残るものだった。
F新橋
新橋はサラリーマンの街である。ニュースの街頭インタビューには必ず使われる街である。 蒸気機関車のある駅前広場。ガード下の赤提灯。しかし、会社員でもなく、酒も飲めない私が、 新橋駅に下りる理由は1つしかない。烏森口から徒歩2分のガード下にある「新橋文化」 という映画館に行くためである。
初めてこの映画館に行ったときは驚いた。上を電車が通るたび劇場全体が揺れるのである。 しかもその電車は山手線であるから、四六時中揺れているといっても過言ではない。 私は驚き、呆れ、とうとう笑ってしまった。いまでもこんな映画館が残っている。そのことが嬉しかった。
いま、ある最新の設備をもった映画館では、たとえば『ジュラッシク・パーク』で大きな恐竜が 出現するときに劇場全体に地響きがするような仕掛けがされていると聞くが、「新橋文化」は ずっと前からそんなことはあたりまえなのである。
G有楽町
有楽町も私にとっては映画の街である。銀座から有楽町を通って日比谷まで、この地域にはたくさん の映画館がある。まさに日本の映画館のメッカである。
しかし、なくなってしまった映画館もある。たとえば「並木座」がそうである。並木通りにある地下 の小さな映画館だった。この地域のほとんどの映画館がロードショー館であるのに対して、 ここは昔の日本の映画(小津安二郎や黒澤明や溝口健二などの作品)の特集上映を基本とする映画館であった。
ある日、『狂った果実』と『嗚呼、女たち。猥歌』の二本立てを見た。前者にもエロチックな場面は あったが、後者は完全なポルノ映画であった。にもかかわらず女性客がたくさん入っているのに 驚いた。当時は、ポルノ映画はポルノ映画専門の映画館で上映するのがふつうで、並木座の ような銀座の由緒正しい映画館で上映するのは珍しいことだった。それまでポルノ映画専門館で 女性を見かけかけることはほとんどなかったが、それは牛丼の吉野家に女性が入りにくいのと 同じ理由で、決して女性がポルノ映画自体を嫌いなわけではないことが、その日わかった。
映画が終わり、地上への階段を上がって行くとき、近くにいた女性が一緒に来た女友達に 「すごい・・・・」とうわごとのように言った一言が妙に記憶に残っている。
H東京(=I大手町)
東京駅で京浜東北線を降り、地下鉄東西線の大手町までは、地上の歩道を歩くコースと、地下道を 歩くコースがある。所要時間は約5分でほぼ同じ。私は往きは地上を(ただし猛暑と雨のときは地下)、 帰りは地下を歩く。
往きに地上を歩く理由は、第一に、空の下を歩くのが好きであること、第二に、途中の薬局で 栄養剤(リポビタンDスーパー、250円)を飲むため、である。帰りに地下を歩く理由は、階段を昇るのがしんどいからである(地下からホームへはエスカレーターが使える)。
J竹橋
竹橋には日本近代美術館がある。私はこの美術館が、鎌倉八幡宮の中にある神奈川県立近代美術館と 並んで大好きである。とくに最上階の明治末期の絵画や彫刻のコーナーがいい。絵画ならば 和田三造『南風』(明治40年)、彫刻ならば新海竹太郎『ゆあみ』(明治40年)。とくに 後者は終日ながめていても飽きないだろうと思う。雨の日、最上階の喫茶コーナーの窓から眺める皇居も素晴らしい。
K九段下
九段下の駅から徒歩2、3分のところに千代田区役所がある。私の父はこの千代田区役所に勤めていた。 部署は、私が知っているだけでも、図書館、住民課、観光課といろいろと変わった。父は商業学校 の出身で(家が雑貨屋だった)、大卒の資格は後から通信教育でとったものである。私は管理職 への採用試験の勉強をする父の姿を憶えている。そして、帰宅するなり「まただめでした」と 母に試験の結果をおどけて報告する父の声も憶えている。父は結局、係長で定年を迎えた。
私は大学時代、父の口利きで、千代田区が募集するアルバイトをよくやった。たとえば千鳥が渕の ボート場のアルバイト。お客がボートに乗るとき、ボートが動かないようにボートの縁をもって、 「お客さん、万一のために靴は脱いで下さい」と注意する(ボートが転覆したとき靴を履いて いると上手く泳げない)。外人の客が来たとき、「テイク・オフ・ユア・シューズ・プリーズ」と 言うべきところを、間違って「プット・オフ・ユア・シューズ・プリーズ」と言って 怪訝な顔をされたことがある。
1974年8月30日昼、いつものようにボート場でアルバイト中の私は、東京駅の方角に巨大な パンク音のようなものを聞いた。それが過激派による三菱重工本社玄関での爆弾テロ(重軽傷者300人) であったとは、そのときは知る由もなかった。
L飯田橋
私の父方の祖母は飯田橋の病院(東京逓信病院?)で癌で死んだ。祖母についての私の記憶はこの 病院へ見舞いに行ったときのことしかない。そのとき私は3歳であったと思う。病室の窓から 下を見ると、交差点を都電(トロリーバスだったかもしれない)が走っていた。病室の祖母 の顔もかすかに憶えているが、窓から眺めた交差点の風景が一番記憶に残っている。 高度経済成長前の東京の風景であった。
M神楽坂
この洒落た名前の駅に降りたのはつい最近のことだ。一文の教務担当教務副主任の草野慶子先生 (ロシア文学)に誘われて、有名な甘味処「紀の善」に行ったのである。彼女はTVドラマ 『ラブ・ストーリー』で一躍有名になった「抹茶ババロア」を、私は「氷あんず」を注文した。 実は「氷あんず」というものを私はこのとき初めて食べた。とても美味であった。甘味処は やはり女性と一緒に入るところである。
N早稲田
昔、うちは下宿屋のまねごとをしていた。二階の6畳(4畳半?)ニ間を貸していたのである。 その住人の1人に早稲田の学生がいた。色の白い、痩せてひょろひょろした、元気のない学生で あった。ある日の夜中、「奥さ〜ん!」「奥さ〜ん!」という彼の大きな声が便所の中から 聞こえて来た。どうやら食物にでもあたったらしく、下痢が止まらず、救急車を呼んでくれと 言うのである。結局、救急車は呼ばずに済んだが、便所の戸を空けて、尻を出したまま、 「救急車を呼んで下さ〜い!」と叫んでいる姿は、何とも情けなく、私の早稲田大学に対する イメージはこのとき(小学生の低学年だった)以来、非常に悪いものになった。
高校生のとき、バドミントン部の部員だった私は、早稲田実業のバドミントン部との練習試合のため、 初めて早稲田駅に降り立った。場所は記念会堂で、そこへ行く途中、文学部の門の前を通り、 「これが早稲田大学か」と自分とはまったく関係ないものを見るようなまなざしを向けたことを 憶えている(本部キャンパスの存在は知らなかった)。ちなみに練習試合は私の大活躍でわが校の勝利に終わった。
それから1年後、こともあろうに、私は早稲田大学バドミントン部の一員として記念会堂の コートに立っていたのである(ただしバドミントン部は練習の厳しさに付いて行けず、 夏休み前に退部してしまったが)。
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誰にとっても、人生のある時期、頻繁に降りたけれど、ある時期を境にまったく降りなくなってしまった駅がある。
私にとってそれは、目蒲線(現在の多摩川線)「武蔵小山」であり(通っていた高校があった)、目蒲線 「矢口の渡」であり(講師をしている塾があった)、目蒲線「武蔵新田」であり(大学院 受験浪人の1年間、毎日通って勉強した図書館があった)、東横線「綱島」であり(結婚生活を ここからスタートした)、東西線「原木中山」である(この間まで住んでいた)。
人生はしばしば旅にたとえられると最初に書いたが、そうすると駅は旅の途中で出会う他者のような ものかもしれない。そして「会うは別れの始め」であり、寺山修司も言ったように、 「だいせんじがけだらなよさ」(逆から読むべし)なのだろう。