お引越し
―研究室だより・2001年春―
最近、引越しをした。13年間住んだ市川市の原木から大田区の蒲田へ。蒲田は私が生まれ育った街で ある。私の両親の住む家を3階建て住宅に建て替えて、二世帯同居を始めたのである。
ある県から別の県へ住所を移動することを、人口学の用語で「府県間移動」という。現在、 年間の「府県間移動」率(全国で一年間に「府県間移動」を経験する人の割合)は約5%である。 累積すると20年で100%になる。これは日本人全員が20年に一度は引越しをするということを 意味する。人生を80年とすると、80年÷20年=4だから、日本人は一生の間に平均4回の 引越しをする計算になる(かなり強引な計算です)。
今回の引越しは私の人生で4回目の引越し(府県間移動)である。したがって、これが人生で 最後の引越しになる確率は高いに違いない。
* * *
私の父親は地方公務員で転勤とは無縁な生活だったので、子供の頃に父親の転勤に伴って転校と いう経験は私にはない。また、東京生まれの東京育ちで、大学も大学院も自宅通学であったから、 進学に伴っての上京という経験もない。
最初の引越しは29歳のときだった。理由は結婚である。東横線沿線の綱島(横浜市)という町で 結婚生活をスタートした。駅から徒歩15分の新築のアパートで、小ぶりながら間取りは一応3DK (和6・4.5、洋4.5、DK4.5)で、家賃は6万5千円だった。6畳の和室は寝室に、4畳半の 和室は電気炬燵を置いて居間に、4畳半の洋室は書斎にした。
蒲田という「映画の街」で育ったせいで、映画館のない町には住みたくないと思っていた。幸い 綱島には映画館が一軒あり、私は大いに喜んだが、残念ながら上映される映画は子供向けの アニメばかりだった。映画館の近くに「珍珍亭」という中華料理店があり、日曜の昼、妻と 一緒に買物に出たときなどに、私は豚の角煮そば、妻は海老そば、それからもう一品、海老の てんぷら(塩胡椒で食べる)を注文するのが、私たち夫婦のささやかな贅沢だった。
なぜ綱島かというと、妻の勤めていた会社が綱島にあったからである。妻は結婚しても仕事を 辞めなかった。というよりも、私がまだ定職に就いていなかったので、仕事を辞めるわけにはいかなかった のである。私は結婚と同時に父親の扶養家族から妻の扶養家族になった(妻は会社の人事課の人から、 なぜ夫が妻の扶養家族になるのかと何度も聞かれたそうである)。妻に負担をかける以上、せめて 住居は妻の職場に近い場所にと考えたのである。
朝、妻が会社に出かけた後、私はアパートの近くの自動販売機で缶コーヒーを一本買ってきて、書斎の 机の前に座る。「さあ、お仕事、お仕事」とつぶやきながら、読みかけの本を広げ、ワープロの 電源を入れる。半年先に予定されている学会のシンポジウムでの報告の準備である。半年先の 仕事の準備・・・・。しかし、当時の私にはそれ以外にすべきことがなかった。そしてその報告は 研究者としての私の評価を左右することになるであろうものだった。学会(研究者の共同体) で認められること、それが「妻の扶養家族である生活」から抜け出すため唯一のルートだった。 来日も来る日も、私は自動販売機で缶コーヒーを買い、机に向かった。半年後、報告は好評をもって 迎えられたが、私は痔を患うことになった。
2度目の引越しは31歳のときだった。蒲田の私の実家の近くのアパートに引っ越した。間取りは 2DK(和6・6、DK4.5)で、家賃は7万5千円であった。以前よりも家賃が1万円増えたのに 部屋は1つ減り、日当たりも悪くなった。なぜこんな引越しをしたのかというと、妻の出産の ためである。結婚後2年で最初の子供が生まれるというのは一般的なパターンであるが、そのとき 父親となる人間がいまだ定職に就いていないというのは一般的なパターンから大きく逸脱していた。 期待していた某国立大学の助手の口は最終選考で落ちてしまい、日本学術振興会の研究員も面接審査 までいったものの補欠止まりだった。妻は専業主婦になることを望んでいたが、会社をまだ辞める わけにはいかなかった。妻が会社に行っている間、赤ん坊の世話は誰が見るか。私も定職にはついていない ものの毎日家にいるわけではなく、ベビーシッターを雇えるだけの経済力はない。かくして親族ネットワーク という伝統的資源の活用が図られることになった。平たく言えば、私の母親に赤ん坊の世話をお願いする ことにしたのである。しかし、同居は空間的にも心理的にも無理だったので、近居(徒歩3分)を 選んだのである。部屋が1つ減るので、私の机や本棚は実家の2階の一室、つまり結婚以前の私の 部屋に運ばれた。私は朝起きて食事を済ませると、実家に行って夕方まで仕事をし(昼食は実家で 食べさせてもらう)、夕食はアパートに戻って妻と食べ、必要があれば再び実家に行って仕事をする という振り子のような生活を送るようになった。
引越しから2ヶ月後、妻は大森の日赤病院で長女を出産した。分娩室の前の廊下の長椅子に腰掛けて待って いると、産声のようなものが聞こえ、やがて分娩室のドアが開いて、医師が小さな生物を大事そうに腕に 抱えて出てきた。私はTVドラマで繰り返し見てきたお馴染みの情景の中にいま自分がいることを 意識した。私は感動しつつ、同時に、感動しなくてはならないのだと感じていた。感動することは社会的 行動の一種であり、すべての社会的行動は規範(その体系を文化と呼ぶ)によってコントロールされて いる。感動は自然に生じるのではなく、「感動せよ」という社会規範に促されて起動するのである。 私は医師からタオルに包まれたその小さな生物を受け取った。本当に小さく、軽かった。事実、未熟児 とまではいかないものの、平均的な新生児の体重をかなり下回っていたらしい。医師は「少し小さい ですけれども、元気な赤ちゃんですよ」と穏やかな口調で告げ、私は「ありがとうございました」と頭を 下げた。それは大関昇進の知らせを告げる使者と力士の会話に似ていた。
数日後、まだ病院にいる妻から電話があった。赤ん坊に「内反足」という異常が見つかったというのだ。 初めて聞く言葉だった。妻は医師から聞いた説明を私に話した。妻は最初、大したことではないという 口調で話していたが、しだいに涙声になり、最後に「病院に来てくれる?」と哀願するようにつぶやいた。 私は全速力で自転車を漕いで病院に行き、妻と一緒に整形外科医の説明を聞いた。「内反足」とは 足首が内側に曲がる先天性の奇形で、そのまま放置すると将来歩行に障害が出るので、今後、毎日 通院して足首のマッサージを受ける必要があるという。説明を聞き終えて部屋に帰る途中の廊下で 妻が泣き出した。私は近くの長椅子に妻を座らせ、妻の肩を抱いた。廊下を歩く人たちが私たちを チラリと見ては、すぐに目をそむけた。私たちが座っていたのは脳神経外科の診察室の前の長椅子 だったので、彼らの目に私たちは脳腫瘍で余命半年を宣告された妻とその夫のように見えたであろう。
近代人の人生の物語の二大テーマは「成功」と「幸福」である。「成功」は「仕事」と結びつき、 「幸福」は「家庭」と結びついている。しかし私はいまだ定職に就いておらず、生まれたばかり の長女には障害があるらしい。人生の物語が思い通りの方向に展開していかないことに私はため息を ついた。当時、私はきっと暗い顔をしていたであろう。そのことに自分でも気づいていたし、 周囲の人に指摘されたこともある。しかし、わかってはいても、どうすることもできなかった。いや、 無理をして明るく振舞うことはできたかもしれないが、そんなことはしたくなかった。かといって 内面の苛立ちを粗暴な言動で周囲にぶつけて、後は野となれ山となれと開き直ることもできなかった。 苛立ちを抑えること。妻子がいるということは、そういうことだった。
3度目の引越しは33歳のときだった。地下鉄東西線沿線の原木中山に中古のマンションを購入したのである。
早稲田大学第一文学部の社会学専修の助手になることが決まったのは、その半年前、長女の満1歳の 誕生日の直前だった。長女の「内反足」は幸い軽度のものだったようで、治療(ギブスとマッサージ) の結果、将来の歩行に障害が残る心配はほぼなくなっていた。長女の誕生祝は同時に私の就職内定祝と 重なった。そのとき私は32歳と7ヶ月だった。驚かれると思うが、それは早稲田大学文学部の助手の就任年齢 としてはとくに遅いということはなかった(助手の採用年齢は35歳が上限とされている)。
私は大学院に進みたいと考えている学部の学生に言いたい。大学院に進むこと自体はそれほど難しく はない。1年間その気になって勉強すれば入れるだろう。難しいのは大学院に入ってからである。 修士課程が2年、博士課程が3年、それですぐにどこかの大学の助手や専任講師になれるわけでは なく、専門学校や大学の非常勤講師を何年か続けて、ようやく助手や専任講師に採用されると いうのが一般的なケースである。問題はその何年かが具体的に何年になるかがわからないということ である。あらかじめ何年と決まっていれば、苦しい生活も耐えることができる。しかし、「今年も だめだった」「また、今年もだめだった」というふうに苦しい生活を続けることは本当にしんどい。 そういうしんどさに耐える覚悟がなければ、大学院へは進まない方がよいと思う。もっとも、 こんなふうに脅かしても大学院へ進みたい人は進むものである。さればしかたがない。元気を出して進むことだ。
私が定職に就いたので、妻は会社を辞めることになった。これは彼女の希望であり、決して私が 辞めさせたわけではない。専業主婦として生きていくこと、それが彼女の人生の物語であり、 私の側の事情がその実現をこれまで妨げていたのである。
同時に、私の書斎が実家の一室にあるという変則的な生活にも終止符を打つことにした。当初、 私たちは蒲田で中古のマンションはないかと探したが、予算(2000万円台)の範囲内で私たちが 望む間取り(3LDK)の物件は皆無だった。時は1987年、史上空前の地価の高騰が始まろうと していた。私たちは都内を諦め、早稲田への通勤に便利な東西線沿線の西船橋方面に物件を求めた。 しかし、地価の高騰は私たちの予想を上回るものだった。ある週の『週刊住宅情報』に載って いた同じ物件が翌週の『週刊住宅情報』では十万円単位あるいは百万円単位で値上がりして いた。私たちは騎兵隊に追われるインディアンの一族のように、浦安を諦め、南行徳を諦め、 行徳を諦め、最後に原木中山の地にたどり着いた。駅から徒歩10分、築10年の3LDK(72u) で、価格は2680万円だった(10年前の売り出し価格より1000万円も値上がりしていた!)。 資金は住宅金融公庫と銀行から調達した。銀行の方は私名義で借りることができたが、 住宅金融公庫の方は「前年度の収入」でひっかかり(お話にならないくらい低かったのだ)、 妻の名義で借りることになった。
原木は一面の畑の中のところどころにマンションが建っているだけの土地だった。猥雑では あるが活気にあふれた蒲田の街に比べると薄っぺらなことはなはだしかった。ここは 長く住む場所ではないと私は最初から割り切っていた。助手の任期は3年なので、その間に どこかの大学に専任講師の口をみつけ、引越すつもりであった。短期間での引越しには私も 妻も慣れっこになっていた。まさか次の引越しまで13年もかかろうとは思ってもいなかった。
そして4度目の引越しは46歳のとき、ということになった。助手の任期中に専任講師の口を見つける ことはできなかったが、1年の失業期間の後、放送大学に助教授として就職することができた。 放送大学の本部(教授会や放送授業の収録はここで行なう)は幕張にあり、私がふだん所属する 学習センター(スクーリングと教場試験を行なう)は大宮にあった。どちらも自宅から1時間前後 で行ける距離で、引越しの必要はなかった。ただし放送大学の教員は任期制で、5年ごとに更新を 繰り返すシステムだったので、いずれ定年まで勤められる一般の大学に移るつもりでいた。 それがどこになるかはわからなかったが、そのときにはマンションを売って一戸建ての家を 購入しようと皮算用をしていた。それが放送大学へ勤めて4年目に思いもかけず母校に呼び戻されること になった。39歳のときだった。
私の職場が東京に確定したことで、私の両親との同居の問題が急速に浮上することになった。しかし、 そのときすでに長女は小学校の3年生になっていた(原木で生まれた長男は幼稚園の「年長さん」 になっていた)。私は子供に転校というものを経験させたくなかった。妻も地域社会の中で彼女 なりの生活構造を確立しており、将来的には私の親との同居に同意してはいるものの、いますぐの 同居には消極的だった。そういうわけで親との同居は、早くても長女が小学校を卒業する1998年、 できれば長女の中学校卒業と長男の小学校卒業が重なる2001年を目処にというのが暗黙の了解事項となった。
そしてついにそのときがやってきたのである。どんな土地でも13年も住むとそれなりの愛着は生まれる ものである。原木のよいところを思いつくままに挙げてみよう。
@ マンションの側にレンタル・ビデオ店がある(深夜に見終わったビデオを返しにいくことができる)。
A 最近、隣に妙典(みょうでん)という新しい駅ができたが、その駅前に「ワーナー・マイカル・シネマズ 市川妙典」というシネマ・コンプレックスがある(午後9時以降に最終回の上映があり、自宅での 夕食後に、あるいは大学からの帰りに映画館で映画が見られる)。
B マンションの横の真間川の堤の桜並木が美しい(自宅のベランダでお花見ができる)。
C 海に近いため、毎朝、カモメや海鵜や白鷺が真間川の上を乱舞する(自宅のベランダでバード ウォッチングができる)。
D 自転車で10分ほどいったところに法華経寺という有名なお寺がある(子供たちが小さいときはしょっちゅう連れて 行き、境内にある「池田屋」という茶店でおでんや赤飯やかき氷を食べ、鳩に豆をやり、池の魚にポップコーン をやった)。
E 「蓬來屋」という佃煮屋がある(私はこの店の鰹の角煮と浅蜊の佃煮が大好物で、どちらもお茶漬けでいただく)。
どれも大したことではないが、二人の子供はこの街で育ったのである。彼らにとってはこの町の風景が 人生の原風景となることだろう。いつかまた子供たちと「池田屋」でカキ氷を食べる日は来るだろうか。
新居は「野村ホーム」という会社に依頼した。営業マンも設計士も誠実な人だった。木造の注文住宅だった ので着工から竣工まで5ヶ月かかった。主たる注文は次の7つだった。
@ 1階に書庫を設けること(1万冊は収納可能なこと)。
A 2階に書斎を設けること(これまでの書斎が4畳半しかなかったので、少なくともそれより 広いこと。結果的に7畳半になった)。
B 3階に妻のための趣味室を設けること(妻は工芸が趣味で、これまでは居間のテーブルの上に いろいろな材料や道具を並べては、私から「片付けろ」と言われてきたため)。
C1階に二間続きの和室を設けること(これは母のたっての希望。自宅で葬式を出すときの ことを考えているらしい)。
D台所と風呂は2つずつ設けること(玄関は1つだが、内部は2世帯分離型であること。これは双方の希望)。
E トイレは各階に設けること(朝の混雑の緩和のため)。
F 駐車スペースを設けること(誰も車を運転しないのだが、当面は妹夫婦が来たときのために。 将来は子供たちが車を持つときのために)。
あまり広くない敷地(50坪弱)に上記の条件をすべて満たした家を建てたため、庭はほとんどなくなって まった。建蔽率や容積率もギリギリで、近所の人たちはずいぶんと大きな家が建ったと思ったに違いない。
設備面でやってよかったと思うのは次の6つである。これから家を建てる方のために記しておく。
@ 床暖房(これは本当に快適。書斎と居間と台所に設置。子供部屋には贅沢なので設置しなかったら、文句が出た)。
A コンピューター制御のお風呂(これはいまではあたりまえの設備なのかもしれないが、スイッチ1つでお湯が張り、 一定の温度を維持してくれるというのはとても便利だ)。
B ウォシュレット(一度これを経験したら二度と従来のトイレには戻れない。世の中のトイレをすべて ウォシュレットにしてほしい)。
C 自動皿洗い機(びっくりするほどきれいになる。とくにガラスのコップの内側がきれいになるのには感激した)。
D 人が近づいたのを感知して灯る玄関灯(私は夜中に帰宅することが多いので。防犯にも役立つだろう)。
E 電動掘り炬燵(スイッチ一つで炬燵が床下に収納される。一階の和室に設置。掘り炬燵は一家団欒の象徴である)。
いままで住んでいたマンションはやっとのことでつい先日売れた。売値はあまりの安さに笑ってしまう ほど安かったとだけいっておこう。しかし中古マンションが安いのは当たり前である。バブルの頃が異常だったのだ。
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生まれてから29歳のときまで住んでいた蒲田の街に18年ぶりに帰ってきた。外国人労働者がますます増えた ように思う。深夜、蒲田駅から自宅までの道の途中、必ず同じ場所に立っている女性たちがいて、 「ドウデスカ?」と声をかけてくる。私は片手を振ってそれに答える。3月中旬に越してきてから すでに1ヶ月近くになるが、これが毎日続いている。蒲田に帰ってきたことを実感する情景である。 猥雑な活気。これが蒲田の街だ。
昨日、長男は中学校の入学式に出た。私も出席した。地元の中学校で、私の母校でもある。彼も これからこの街で思春期を迎えるのだ。校庭で記念の写真を撮りながら、ファインダーの中に遠い日 の自分を見る気がした。