本をめぐる断章

−研究室だより・1997年冬−

 

  研究室に来る学生の必ずもらす感想。「すごい本ですね!」

  私「そうですか?」

 研究室に来る学生が必ずする質問。「これ全部読まれたんですか?」

  私「まさか!」

 

 本を買うペースと本を読むペースは同じではない。1冊買って、それを読み終わってから次の1冊を買う、 というわけではない。本屋に行って、あるいは新聞の広告や書評を見て、読んでみたいと思った本は とりあえず買うのである。だから本がどんどん増えるし、買っただけで読んでいない本の割合も 必然的に大きくなる。これは私に限ったことではなく、本を読むことが仕事の一部である人間は みなそうである。それには2つの理由がある。1つは、新刊本は出たときに買っておかないと、 書名を忘れてしまったり、品切れになってしまったりで、後からでは手に入らないことがあるから。 もう1つは、すぐに読むつもりはなくとも、それが自分の部屋の本棚に並んでいるのを見ているだけで、 けっこう思考が刺激されるから。この効果は馬鹿にできないものがある。アルコールを飲まない私 が言うのもなんですが、ワイン棚に並んだワインみたいなものです。

 私は本といういうものは身銭を切って買うものだと信じている。図書館を利用するのは、調べもの をするときだけだ(絶版になっている本とか、雑誌のバックナンバーとか)。読む(調べるの ではなく、読む)本は買って自分のものにする。というのは、私は本に書き込みをする習慣が あるからだ。書き込みをしないと読んだ気がしないのである。地域の図書館などにいくと、 「小池真理子『恋』47人」などと新刊本の貸し出しの予約状況が掲示されていたりする。 信じがたい光景である。赤穂浪士が討ち入りの前夜に回し読みをするつもりなのかもしれない。 そうとしか考えられない。

 本で困ることはその置き場所である。現在、私は本を3カ所に分散して保管している。 1つは大学の研究室(8〜10畳程度)。ここには論文を書いたり、講義ノートを作るために 必要な本、つまり仕事上必要な本を置いている。2つ目は自宅の書斎(4畳半程度)。 ここには好きな作家や敬愛している学者・ジャーナリストの本を置いている。 3つ目は私の実家(かつて私と妹の部屋であった6畳2部屋)。ここには文学全集や美術全集 やエンサイクロペディア・ブリタニカといった重量感のあるセット物が置かれている。こうした 分散型の短所は、言うまでもなく、読みたいときに読みたい本がすぐ手に取れないことだ。 とくに実家に置いてある本の場合が不便である。たとえば、魯迅の『故郷』を読み返したく なったり、調べる必要が生じたときに、実家に行けば『魯迅選集』(岩波書店)の中にそれが入っているのだが、 行って帰って来るだけで1日仕事になってしまうので、近所の本屋で岩波文庫版を買うことになる。 そういうことがしばしばある。だから私が同じ本を2冊持っていても、年をとって物忘れが ひどくなったせいではない。断じてない。・・・・そういうことにしておきたい。

 仕事関係の本を全部大学の研究室に置いてあるために、家では仕事ができない。だから授業があろう となかろうと平日は毎日大学に行くことになる。自慢ではないが、私は早稲田大学文学部の 全教員の中で最も出勤率の高い教員の1人であろうと思う。実は、文学部の研究室が1人1部屋に なったのは5年ほど前のことで、それまでは2人で1部屋だった。当然使いにくい。そのため 研究室は勉強する場所ではなく、楽屋みたいなものであった。授業の直前に楽屋に入り、 授業が終わるとさっさと自宅の書斎に帰って勉強をしたのである。そういう時代が長かったから 昔からいる先生は大学に必要最低限しか顔を出さない。私のように最近やってきた教員だけが、 毎日やってきて、夜、9時10時まで研究室で仕事をしているのである。ただ、年輩の先生の 中には例外もいて、私が学部時代に中国語を教えていただいたA教授は、一体いつお帰りになるの だろうと不思議に思うほど、毎日遅くまで大学に残っていらっしゃる。研究室で寝泊まりしている のだという噂もある。よほど家に帰れない、あるいは帰りたくない事情があるのだろう。 (実はこの「研究室だより」は12月27日に研究室で書いている。ついさっき、午後7時ごろ、 下の教員ロビーに用事があって行ったら、A教授がいらした。まさかここで年を越されるつもりでは・・・・。)

 夜も更けてきたので、昔話でもしよう。

 私が人生で初めて読んだ本は何か。残念ながら覚えていない。しかし、初めて買った本は覚えている。 『少年サンデー』、40円であった。「伊賀の影丸」と「おそまつ君」が好きだった。買うときは 決心がいった。高校生がヌード写真集を買うときのように、本屋の前を行ったり来たりした。 どうしてあんなに迷ったのであろうか。子供心に漫画を低俗なものと考えていたのだろうか。 それとも『少年サンデー』は週刊誌であるから、一度買うと今後も続けて買うことになるかも しれないので慎重になったのだろうか。しかし『少年サンデー』を買ったのはその一度だけだった。 結局、漫画は床屋で読むものだと思った。

 漫画を別にすると、最初に買った本は野口英世の伝記である。ある日、放課後の小学校の校庭に 本屋さんが本の入ったダンボール箱をたくさん運び込んできた。子どもたちは親からもらった 小遣いを握りしめて1冊の本を買った。夕暮れの校庭にコウモリが飛び交っていたのをはっきりと 覚えている。本の中身ではっきり覚えているのは、故郷に錦を飾った英世が歓迎の宴のときに、 隣にいる母親に、「お母さん、これは鯛のさしみですよ。やわらかいから、入れ歯でも大丈夫ですよ。」 と語りかける場面である。英世の母親は刺身といえばマグロの赤身しか知らなかったのだ。 そのときの私もそうだった。ほんの数切れのまぐろの赤身があれば、たっぷり醤油をつけて、 それで何杯もごはんを食べることができた。鯛の刺身はマグロとは別格のもので、功成り名を遂げた 人が食べるものなのだと、そのとき私は感じた。自分も偉くなったら母親に鯛の刺身を食べさせて やりたいと思った。・・・・私はいまでも鯛の刺身を食べるとき、野口英世を思い出す。鯛の刺身は、 とくに活き作りのものは、プリプリと弾力がある。「入れ歯でも大丈夫」という表現は適切ではない。 思うに、英世が故郷(福島県猪苗代)で食べた鯛の刺身はあまり鮮度のよくないものだったの ではなかろうか。ちなみに私はまだ母親に鯛の刺身を食べさせてあげていない。 父親が魚嫌いなので困るのである。

 新しい年はどんな本と出会えるだろうか。考えるだけで、わくわくする。そして問題は本を読むため の時間をどう確保するかだ。頑張らねば!


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