単 純 な 生 活
―研究室だより・1998年春―
生方敏郎『明治大正見聞史』(中公文庫)の中の「大正八年夏の世相」を読んでいたら、「天下にその名の 高い小説家」大久保郊外の一日の生活が書かれていた。
「今日の小説家は到底職工諸君のような人気を持ってはいないから、一日の労働時間八時間制はとても 許されまい。郊外先生などと来るとまず毎朝午前十一時に起きて、午後一時から机に向かい翌日の 午前三時、四時頃までは労働しつづけである。即ち一日十四時間もしくは十五時間労働で、時には 徹夜することも珍しくない。しかも喜んで徹夜をするのだ。」
大久保郊外はユーモア作家生方敏郎がでっち上げた架空の人物である。たぶんそのころ生方は当時は まだ東京の郊外だった大久保あたりに住んでいたのに違いない。大久保郊外は生方の分身なのだ。
で、なぜ、この一節をわざわざ引用したのかというと、最近の私の生活がこれとそっくり同じである からだ。私はいま春休みのまっただ中にいる。一月下旬に授業が終わり、二月上旬に卒論の面接試験 が終わり、入学試験関係の業務が三月上旬に終わり、単発的な会合がときどきある以外は、四月中旬の 新学期の開始まで手帳の予定欄は閑散としている。いつもなら用事がなくても大学へ行って研究室で 仕事をするのだが、今年の春休みは研究室のある建物が冷房装置の取り付け工事のために騒音が ひどく、落ち着いて仕事ができないので、終日、家で仕事をする日が多くなった。動物の多くは 本来夜行性である。昼は植物の時間である。にもかかわらず人間が朝起きて昼間働くのは 社会制度という外部の強制力のせいである。したがって大学に出かける必要がなくなると、 起床時間と就寝時間は遅い方へ遅い方へとずれてゆき、ついに郊外先生と寸分違わぬ生活時間 を送るようになった。現在、起床時間と就寝時間の遅れが辛うじてここで止まっているのは、 私が独り者でなく、家族と一緒に暮らしているからである。思うに家族とは人間を世間に 縛り付ける根元的装置である。
前回の「研究室だより」に書いたように、四月から大学院で「清水幾太郎とその時代」という テーマで講義をすることになっている。大学院はプロの研究者の養成所であるから、学部の 授業よりも数段密度の濃いものが求められる。毎回の講義の準備も大変だ。しかし、 その一方で学部の授業が週に四コマあり、加えて週に一度の卒論指導ゼミもあるので、学期が 始まったら時間がなくなることは目に見えている。それで大学院の講義の準備(少なくとも前期分) は春休み中にやっておこうと頑張っているわけである。いま、ついうっかり「頑張っている」 と書いてしまったが、受験勉強のように無理して夜遅くまでやっているわけではなく、面白いから 自然にそうなるのである。読みかけの本を閉じて布団に入ることがなかなかできず、 もう数ページ、もう数ページとやっているうちに、朝刊が配達される時刻になるのである。
いま読んでいるのは明治後期から大正、昭和戦前期あたりに書かれた本、あるいはその頃の ことについて書かれた本である。冒頭にあげた『明治大正見聞史』もそうした本の一冊である。 同じ日本とはいってもその時代の日本は私にとって半分外国である。驚き、呆れ、感心すること ばかりである。読書はどういうものであれ、一種の精神的な旅である。読書に熱中しているとき、 そこが自宅の書斎であれ、通勤電車の車内であれ、大学の研究室であれ、精神はその場所を 離れて本の中の世界にいる。そこで活発に動き回っている。その活動を阻害しないためには、 日々の生活はできる限り単純であるほうがいい。単純な生活とは単調な生活のことではない。それは 大小の夾雑物(と自分に思えるもの)を可能な限り取り除いた純度の高い生活のことである。 単調な生活は自然発生的に生じるが、単純な生活はそれを実現しようとする強い意志がないと 実現できないものである。
阿部昭に『単純な生活』(講談社文芸文庫)という作品がある。単純な生活について書かれたもの ではなく、単純な生活に憧れる作者の日常生活を描いた作品である。
「現実に、私の生活は単純なと言うにはあまりにも遠いものだ。一年のほとんどをこんな海辺の町に 逼塞して、変化のない毎日を送っている私のような人間にしてからが、単純な生活からはとっくに みはなされているのである。現代というこの時代に傷めつけられて罅が入った私の精神、およそ 純粋無垢とは反対な私の心、そんなものを包んでいる私の肉体というこのくたびれた不完全な容れもの、 こみ入って実体がつかめないか実体がなくてうわべだけの人間関係、それでもとにかく生きて行く ための毎日のややこしい手続き、−こういうものはむしろ複雑怪奇なと言ったほうがよさそうではないか。」
単純な生活を実現するのは難しい。修道院や禅寺というのは単純な生活を実現するために古人が 考え出した装置である。私は禁錮刑で刑務所に入る自分を夢想することがある。懲役刑ではなく禁錮刑で あるところが肝心で、懲役刑は「刑務所内に拘置して一定の労役に服させる刑」だが、禁錮刑は 「刑務所内に拘置するだけで労役には服させない刑」である。だから時間はたっぷりある。 電話もかかってこないし、だらだらと長いだけの会議に引っぱり出されることもない。こんな 非現実的なことを考えたのは、大杉栄『自叙伝・日本脱出記』(岩波文庫)を読んだせいである。 大杉は明治三四年三月、二二歳のとき、市電の運賃が三銭から五銭に値上げされるのに反対して 日本社会党が起こした市民運動に関わり、兇徒聚集罪で起訴され初めての入獄を経験した。 社会主義者は一種の伝染病の病原菌のようなものと考えられていたから、東京監獄では独房に入れられた。
「三畳ばかりの小綺麗な室だ。まだ新しい縁なしの畳が二枚敷かれて、入り口と反対の側の 窓下になるあと一枚分は板敷きになっている。その右の方の半分のところには、隅っこに 水道栓と鉄製の洗面台とがあって、その下に箒と塵取りと雑巾とがかかっていて、雑巾桶らしい ものがおいてある。左の方の半分は板が二枚になっていて、そのまん中にちょうど指をさしこむ くらいの穴がある。なんだろうと思って、その板をあげて見ると、一尺ほど下に人造石が 敷いてあって、そのまん中に小さなとり手のついた長さ一尺ほどの細長い木の蓋がおいてある。 それを取りのけるとプウンとデシンらしい強い臭がする。便所だ。さっそく中へはいって 小便をした。下には空っぽの桶がおいてあるらしくジャジャと音がする。板をもと通りに直して 水道栓をひねって手を洗う。窓は背伸びしてようやく目のところが届く高さに、幅三尺高さ四尺 くらいについている。ガラス越しに見たそとは星一つないまっ暗な夜だった。室の四方は 二尺くらいずつの間をおいた三寸角の柱の間に厚板が打ちつけられている。そして高い天井の 上からは五燭の電灯が室じゅうをあかあかと照らしていた。『これなら上等だ。コンフォルテブル ・エンド・コンヴェニエント・シンプル・ライフ!』と僕は独りごとを言いながら、 室の左側の棚の下に横たえてある手拭い掛けの棒に手拭いをかけて、さっき着かえさせられてきた 青い着物の青い紐の帯をしめ直して、床の中にもぐりこもうとした。」
「快適で便利で単純な生活!」とはずいぶんと強がったものだが、確かに、必要最小限のもの のみで構成された世界には一種の美しさがある。大杉は同年六月に保釈されるまでの間に獄中で エスペラント語をマスターし、保釈後にエスペラントの教室を開くかたわら、黒板勝美らと 日本エスペラント協会を設立している。以後、大正十二年九月一六日、震災後の混乱の中で 憲兵に殺される日までの大杉の人生は、入獄と出獄の繰り返しであった。一番長かった刑務所生活は、 明治四一年六月の赤旗事件(同志山口弧剣の出所祝いが神田の錦輝館で開かれたときに、 「無政府共産」と書かれた赤旗を掲げて、警官隊と衝突した事件)で官吏抗拒及び治安警察法違犯 で捕まって千葉監獄で過ごした二年六ヶ月である。このときは禁錮ではなく懲役だった。 「南京麻の堅いのをゴシゴシもんで柔らかくして、それで下駄の緒の芯をなう」作業を昼間に 十時間、夜間に二、三時間もやらされるのである。しかし、大杉はめげなかった。かれは 「自分の頭の最初からの改造」を目的として勉強計画を立てる。
「元来僕は一犯一語という原則を立てていた。それは一犯ごとに一外国語をやるという意味だ。 最初の未決監の時にはエスペラントをやった。つぎの巣鴨ではイタリイ語をやった。二度目の巣鴨 ではドイツ語をちょっと囓った。こんども未決の時からドイツ語の続きをやっている。で、刑期が 長いことだから、これがいい加減のものになったら、つぎはロシア語をやってみよう。そして 出るまでにはスペイン語もちょっと囓ってみたい、とまずきめた。今までの経験によると、ほぼ 三ヶ月目に初歩を終えて、六ヶ月目には字引なしでいい加減本が読める。一語一年ずつしても これだけはやられよう。午前中は語学の時間ときめる。(中略)それから、以前から社会学を 自分の専門にしたい希望があったので、それをこの二ヶ年半にやや本物にしたいと決めた。が、 それも今までの社会学のではつまらない。自分で一個の社会学のあとを追って行く意気込みで やりたい。(中略)それには、あの本も読みたい、この本も読みたい、と数え立ててそれを読み あげる日数を数えてみると、どうしても二ヶ年半では足りない。すくなくとももう半年は欲しい。」
余談だが(ただし大学院の講義では重要なこと)、大杉の自叙伝が雑誌『改造』に連載され 始めたのは大正十年で、当時、清水幾太郎は中学生だった。清水は大杉に傾倒し、大杉の死に 強いショックを受けた。おそらく清水が医者志望を捨て社会学を志した背景には「社会学を自分 の専門にしたい」という大杉の言葉があったに違いない。大杉が希望して果たせなかったことを 自分がやるのだという自負が清水にはあったと思う。
大杉が「自分の頭の最初からの改造」に取り組んだ千葉監獄の独房は、東京監獄のそれよりも広く、 四畳半敷くらいはあった。「南向きの明るい小綺麗な室だ。なによりもまず窓が低くて大きい。 東京のちょっとした病院の室よりもよほど気持ちがいい」と書いている。私は軽い嫉妬を感じた。 私の書斎も四畳半であるが、北東向きで暗く寒い。妻はしばしば私の書斎を冷蔵庫代わりに 利用する。サーモンのマリネとか、チョコレートケーキとか、暖まってはいけないものを、 食卓に出すときまでそこに置いておくのだ。
しかし、大杉の「シンプル・ライフ」には決定的に欠けているものがある。気が向いたとき に散歩に出る自由である。前回の『O and O』に杉山圭子さんが「散歩が好きだ」を書いていたが、 私も散歩が好きだ。午後の一時頃から仕事を始めて、夕方の五時頃、散歩に出ることが多い。 ただし、私の散歩は杉山さんの散歩と違って、運動というよりは買い物である。西船橋の「三省堂」 あるいは船橋の西武デパートの「リブロ」によく行く。私の仕事の中心は本を読むことであるから、 本屋へ行くことは気分転換にならないのではないかと思われるかもしれないが、それがさにあらずで、 本を買うという行為には十分に気分転換の機能がある。あらかじめ買いたい本が決まっている場合は 別として、何か面白そうな本はないかと捜していると、すぐに五、六冊にはなる。十冊を越えること も珍しくない。レジの台の上に本の山を置くと、店員は半ば尊敬の、半ば当惑の視線を私に向ける。 「カバーは結構です」と私が言うと、「ありがとうございます」と店員は心の底から言ってくれる。 衝動買いは抑圧された欲求の代償的充足行為だという見方がある(たとえば、キャロリン・ ウェッツソン『買い物しすぎる女たち』講談社)。たぶんその見方は正しいと思うが、 抑圧された欲求を抱え込んでいない人間はいない。それが酒に向かうか、ギャンブルに向かうか、 異性に向かうか、食事に向かうか、子供の教育に向かうか、あるいはそれ以外の何かに向かうか、 それは人さまざまである。どの対象に向かうのであれ、常軌を逸しない限りは問題はない。 ただし、常軌を逸しているかどうかの判断はしばしば本人には難しい。
植草甚一という人がいる。清水幾太郎と同じ日本橋に、清水よりも一年遅い明治四一年に生まれ、 遊びと仕事の区別のまったくない人生を送って、四〇歳を過ぎてから映画・ジャズ・推理小説評論家 として世に出た人だ。この人の本の買い方は尋常ではない。「本の話だとすぐ古本屋歩きのこと になる」という彼独特の長いタイトルのエッセー(『古本とジャズ』角川春樹事務所、ランティエ 叢書)にはこんなことが書かれている。
「ぼくは毎日十二冊くらい買っていた。それが最近は十五冊になっている。けれど本屋に行けない日 がある。それでも一か月に五百冊にはなってしまう。二冊か三冊では本を買った気がしない。 たまに神保町で洋書と雑誌を四十冊ばかり買って帰り、九時ごろからあっちこっちパラパラ やりながら、いちおう目を通すと夜中の二時ごろになるが、そんなときが一番楽しい。」
「ときどき机の前で、そのときやっていることを忘れてボンヤリとし、三日間だけ神保町の そばのホテルに泊まりたいな、という気持になってくる。(中略)かりに十万円とはいかなくても 五万円では足りそうもないから、さしあたり七万円として、ホテルに泊まって三日間ぶらつけば、 二百冊は読んでみたい洋書にぶつかるはずだ。ぼくはまだ二百冊いっぺんに買ったことはない ので、それをタクシーに積んで帰るときのことを想像すると、やっぱり三日間泊まり込みで 神保町の古本屋歩きがしたい。」
ここまでくれば立派な病気である。しかし、誰に迷惑をかけているわけでもないから、治療の必要 はない。何より凄いのは、このエッセーを書いたとき、植草はすでに還暦を数年過ぎていたことだ。 二〇年後の私もかくありたいものだと思う。もっとも買い物という行為に気分転換の効能が あるとすれば、買うのは本以外のものでも構わないということになる。事実、その通りで あって、私は散歩の帰りにしばしばスーパーマーケットに立ち寄り、朝食や昼食のときに 自分が食べたいものを買う。夕食の献立は妻の領分なので、そこには立ち入らず、海苔の 佃煮とか烏賊の塩辛とかもづく酢とか牛肉の大和煮の缶詰とか、そういった「居酒屋の小鉢物」 的なものを好んで買う。私は下戸だが、酒の肴というのはご飯のおかずとしても十分に美味しい。 大きな本屋とスーパーマーケットは私の目には非常に似たものに見える。
読書と散歩と買い物、これに加えて週末の将棋道場通い。これが現在の私の生活の基本的な骨組みだ。 ここにさまざまな「一回限りの出来事」が付随することで、実際の生活は成り立っている。 「一回限りの出来事」は人生の夾雑物ではない。なぜなら人生そのものがそもそも「一回限りの出来事」 であるからだ。
二月中旬、二人の知人が子供を亡くした。一人は四か月の赤ん坊で、もう一人は十九歳の青年だった。 社会学教室の助手をしているK君は一昨年結婚し、昨年父親になったばかりだった。K君とは 帰る方向が一緒で、電車の中で定期券に入れた赤ん坊(女の子)の写真を見せてもらったこと もある。「最近、表情が豊かになってきました」と、いつもは頭脳明晰でクールな彼がそのとき だけは大甘の父親の顔になった。奥さんは中学の英語の先生をしており、赤ん坊は近所の保育所に 預けていた。その日もいつもと同じ一日のはずだった。昼近くなって、保育園から大学に、赤ん坊の 具合が悪いからすぐに来てくれという電話が入った。K君が病院に駆けつけたときは、赤ん坊はすでに 危篤状態だった。医者は保育園でのうつぶせ寝が原因の可能性があるが、因果関係を証明することは 難しいとK君に告げた。絶望的な状況の中で重い時間が経過し、赤ん坊は翌日息を引き取った。 葬儀は身内だけで行われたと聞く。私は街で小さな子供の姿を見るたびに反射的にK君夫婦のこと を考える。他人である私がそうなのだから、K君と奥さんは終日亡くなった子供のことを考えているに 違いない。昨日までそこにいたものが、今日はそこにいないということを、事実として受け入れ られるようになるのはいつのことだろうか。
K君の赤ん坊が亡くなった次の日、私の住むマンションの住人の一人で、一緒に役員をやったこと のあるMさんの一人息子が亡くなった。身体が不自由な子で、Mさんが車椅子を押している姿を ときどき見かけた。そういえば最近見かけないなと思っていた矢先の訃報だった。十九歳とは 知らなかった。もっとずっと小さく見えた。私はその子を生まれつきの脳性麻痺だと思っていた が、それは間違いで、進行性筋ジストロフィーであったことも初めて知った。通夜の席に彼が 三年生のときまで通っていた小学校の先生から花が届いていた。私の長男はいま三年生である。 Mさんの息子もそのときまでは自分の足で小学校に通っていたのだ。発病し、症状が進み、 車椅子の生活となり、さらに症状が進み、ついに心臓が停止したのだ。彼の死は突然の死 ではなく、予告された死だった。Mさん一家は「その日」をいつも意識しながら寄り添って 生きてきた。 Mさん夫婦の静かな表情がそのことを語っていた。
宮本信子が伊丹十三の死後初めて舞台に立つことになったという記事を新聞で見たのはそのころ だった。共演者との顔合わせの日、彼女は三好達治の「涙をぬぐつて働かう」という詩の最初の ところを朗読したと書かれていた。しかし、それがどのような一節であったかは書かかれていなかった。 私は本棚から『三好達治詩集』(岩波文庫)を取り出し、ページをめくった。それはこんな風に始まる詩だった。
みんなで希望をとりもどして涙をぬぐつて働かう忘れがたい悲しみは忘れがたいままにしておかう苦しい心は苦しいままにけれどもその心を今日は一度寛がうみんなで元気をとりもどして涙をぬぐつて働かう三月中旬、長女が小学校を卒業した。生まれたときには未熟児だったのに、いまでは身長一五七センチ と同級生の中でもかなり大きい方だ。内反足という先天性の奇形と診断されて生後一か月は両足に ギブスをしていた。ギブスが取れてからもしばらくは整形外科に毎日通ってマッサージの治療を 受けた(昼間の整形外科の待合室は老人ばかりで、長女はちょっとしたアイドルだった)。私も 医者からマッサージの仕方を習い、自宅でそれを行なったが、あまりやりすぎるのもよくありません よと医者から注意された。小学校の運動会の徒競走で三位入賞のリボンをもらったときは、もうこれ で何の心配もいらないと、本人以上にこっちが嬉しかった。長女を毎日整形外科に連れていって くれた私の母は、孫の卒業式に出るのを楽しみにしていたが、この正月以来、体調を崩して寝たり 起きたりで、式には来られなかった。電話で卒業の報告をしたとき、長女とはずいぶんと長く話を していた。長女はうんうんと相槌を打つばかりで、お婆ちゃんが喜ぶような、何か気の利いた 言葉を言ってやれよと、側で聞いていてじれったかった。
三月下旬、勤務先の大学の卒業式があった。早稲田大学に赴任して丸四年、一年生のときからの教え子 の卒業式だ。当時はポケベルの全盛時で、授業中に鳴るポケベルの音に戸惑ったものだ。それが いまやポケベルは下火となり、携帯電話の天下となった。当然、こちらも免疫が出来てきて、授業中 に携帯電話が鳴ると私が代わりに電話に出て、「女はあずかっている。明日までに二千万用意しろ。 警察には知らせるな。もし知らせたらどういうことになるか、わかってるな」と言って電話を切ったり している。夜の謝恩会ではたくさんの学生と話をした。一年前の、手探りで就職活動を始めた頃の、 思いつめたような表情は嘘のように、みんな明るい顔をしていた。青年期の問題の大半は職業問題 であると私は考えている。子供の頃から「大きくなったら何になる?」という質問をシャワーのように 浴びて育つのが近代社会の子供たちである(もちろん私もその一人だった)。人生は「何かになる」 ための過程なのである。就職するということは、長年の問いかけに対してとりあえずの解答を出した ということである。ホッとするのは当然だ。いずれその解答に疑問をもつ日はやってくるだろうが (それが近代社会に生きる人間の宿命である)、しばらくは迷うことなく目の前の仕事に没頭すれば いい。彼らは卒業し、私は残る。帰りの電車の中で、色紙に細かい字でビッシリ書かれた一人一人の コメントを読みながら、いい学年だったなと改めて思った。しかし、感傷に浸っている暇はない。 すぐに新しい一年生が入ってくる。出会いと別れの繰り返し−それが教師という職業だ。
今日も朝刊の配達の時刻になった。配達しているのは妻の友人の本田夫人だ。健康と経済のために 去年の夏から始めたのだ。「お宅のご主人、ずいぶん朝早く起きるのね」と彼女が言うので、 朝早く起きるのではなく、朝まで起きているのだと妻が説明したところ、「夫婦関係に問題はないの?」 と心配してくれたそうだ。余計なお世話とはこのことだ。