単純な生活(実践編)

−研究室だより・1998年夏−

 書店で、イレイン・セントジェームズ『人生を複雑にしない100の方法(原題は、Simplify Your Life)』 (ジャパン・タイムズ)という本を手に取った。冒頭にイギリスの作家ジェローム.K.ジェロームの 文章が引用されていた。

 「人生の舟を軽やかに。必要なものだけを積み込むこと−質素な家、素朴な娯楽、その名に値する 一、二の友人、愛する人と愛してくれる人、猫一匹、犬一匹、一本か二本のパイプ、最低限の衣類と 食料、最低限より少し多くの酒。なぜなら、のどの渇きは体に毒だから。」

 ジェロームの小説『ボートの三人男』を読んだのは小学校の5年生の頃だったろうか。当時、小学館 から『少年少女世界の名作文学』というシリーズが月に1冊のペースで出ていて、私は自分の小遣いで  それを買っていた。最近はめっきり少なくなったケース入りのしっかりした装幀の本で、値段は480円。  小遣いは500円だったので、手元には20円しか残らなかった。結局、半年が経ったあたりで、全巻  (50巻?)揃えるという野望は挫折したのであるが、収入の96%を本代に充てる生活というのは、  私の人生で、空前絶後である。『ボートの三人男』はそのとき読んだものの中で一番面白かった作品  である。いま思うと、私はそのときはじめて「ユーモア」というものと出会ったのである。その  懐かしい作家の名前と久しぶりに再会したのも何かの縁であろうと思い、『人生を複雑にしない100  の方法』を買うことにした。

 前回の『O&O』に「単純な生活」を書いたが、この本はその実践編というわけだ。彼女の提案する

 100の方法は、私にとって以下の5つに分類できる。
@(この本を読む前から)すでに実践しているもの
A その必要のないもの
B してみようかなと思うもの
C(できたらいいのだが)できそうにないもの
D する気になれないもの

 第一に、すでに実践しているものは、たとえば「年に一度はひとりになる休暇をとる」である。毎年、 8月の中旬、妻が子供たちを連れて1週間ほど里帰りをする。必然的に私は一人残される。一人で 休暇に出るわけではないから、お金もかからないし、旅先で浮気をしているのではないかと疑われる こともない。29歳で結婚するまで親元で暮らし、その後はずっと妻子と暮らして来たので、私の人生 には「一人暮らし時代」というものがない。自分が経験したことのないものに憧れるのが人間と いうものである。私はこの1週間を「白金の一週間(プラチナム・ウィーク)」と呼び、本家の 「黄金の一週間」よりも楽しみにしている。炊事、洗濯、掃除、買物は嫌いではない。しかし、妻は 「この人は私がいなければ何もできない人なの」と思いたいらしく、休暇中、しばしば実家から電話を かけてくる。「何の問題もない。快適に生活している」と私が答えると、「ふ〜ん。で、ちゃんと仕事 してる?」などと言う。私はすでに大厄を過ぎ、一応は大学の教授で、本だって出している。そういう 男に向かって「ちゃんと仕事してる?」はないだろう。

 第二に、その必要のないものは、たとえば「車を手放す」である。私は手放すべき車というものを そもそも所有していない。自動車免許を持っていないし、持ちたいと思ったこともない。車に関心が ないのは、子供の頃、乗り物酔いに悩まされたことが大きい。とくにバスが駄目で、課外授業の 「東京都内めぐり」のときなどは、すでに乗車する前からバス周辺に漂う独特の臭いにめげており、 乗車後は、前の方の席で、こみ上げてくる吐き気との勝ち目のない死闘を演じていた。どこをどういう 順序で回ったかなどまったく覚えていない。長ずるに及んで乗物に酔う体質は改善されていったが、 いまでもタクシーは苦手で、滅多なことでは乗らない。そういうわけだから、車の名前もまったく 知らない。よくニュースで「事件の現場から走り去る白いカローラを見た」なんていう目撃者の証言 が紹介されたりするが、私にはこの種の証言はまったくできないだろう。友人知人は「自分で車を 運転するようになれば、車にも酔うこともなくなるよ」と言うが、そもそも車の必要を感じないの だから、私が車の免許を取ることは今後もないと断言できる。したがって、駐車違反で罰金を取られる ことも、車体に傷を付けられて激怒することも、渋滞に巻き込まれてイライラすることも、新車を購入 するために借金をすることも、自動車事故の加害者になることも、ありえない。車のない人生とは なんと穏やかな人生であろう。

 第三に、してみようかなと思うことは、たとえば「一時間早く起きる」である。学期中の私は8時半 に起きる。水曜の2時間目(10時40分から)に授業があり、家から大学まで約1時間なので、 9時半には家を出なくてはならず、その時刻に家を出るためには8時半には起きなくてはならない。 朝の一通りの儀式(シャワー、髭剃り、食事、新聞、トイレ、洋服選び、持物確認)を気ぜわしく なく済ますためには、最低1時間は必要である。眠気に負けて起床が15分遅れると、新聞が読めなく なる。30分遅れようものなら、朝食抜きである。家を出なくてはならない時刻と起床時刻が同時という 事態が発生し、真夜中に緊急出動する消防隊員のような勢いで家を飛び出すことも、年に数回ある。 逆に、いつもより30分早く起きたときなどは、時間がゆったりと流れている感覚がある。食欲が まだ目覚めていないときに食べ物を胃に送り込むのは、食事というよりも作業である。30分早く 起きれば、食事を楽しむことができる。いわんや1時間早く起きれば、登校前の子どもたちの顔を 見ることができるし、子どもたちを送り出して再び眠りにつく直前の妻に「おはよう」と言うこと もできる。「家庭内単身赴任」問題もこれで緩和されよう。唯一の問題は「お父さんが早く起きて くるとトイレが混雑して困る」と家族から苦情が出ることであるが、それはまた別の話である。

 第四に、(できたらいいのだが)できそうにないものは、たとえば「電話が鳴ってもとらない」である。 『O&O』14号の「電話のある生活」に書いたとおり、私は自宅や大学の研究室に頻繁にかかってくる テレホン・セールスに辟易している。相手も人間であり、仕事でやっているのであるから、そう つっけんどんに電話を切るわけにもいかない。「税金対策にマンションを購入されることをお勧め します」「いえ、節税対策が必要なほどの高給取りではありませんので・・・・」「相当の副収入も見込め ます」「いえ、お金というものは額に汗をして稼ぐものだと思っておりますので・・・・」「ですから、 その額に汗をして稼がれたお金をごっそり税金にもっていかれないために、マンションの購入を お勧めしてしているわけです」「いえ、税金の納入は国民の重要な義務の一つであると考えており ますので・・・・」−こういう会話が延々と続くのである。著者が勧める「電話が鳴ってもとらない」 方法とは留守番電話を利用するものである。つまり、自分が家にいるときも電話の留守録機能をオンに しておいて、相手の正体が判明した段階で、受話器をとる(あるいは、とらないと決める)のである。 しかし、この方法には欠点がある。相手が留守だとわかると、無言で電話を切る人が多いということ である。私自身もどちらかというとそうで、メッセージを残すのは、事前に相手が留守であることを 想定して頭の中でメッセージができあがっている場合に限られる。相手の声を聞いてから出ようと 思っていたら、留守番電話の案内が流れたとたんに切られてしまい、いまのは一体誰からの電話だった のだろうかと気になってしかたがない、・・・・ということになりはしないだろうか。私の目の前の 電話のベルが鳴っているとき、どこかのテレビ局の番組の司会者がこんなことを言っているかも知れない。 「市川にお住まいの大久保さん、早く電話に出て下さい。そうしないと10万円は別の方のもの になってしまいます。」

 第五に、する気になれないものは、たとえば「テレビを見ない」である。私はテレビ世代である。 テレビの本放送が始まったのは、私が生まれる前年の1953年のことである。そして、私がもの心 つくころには、テレビは庶民の生活の一部となっていた。ただし、まだどこの家にもテレビがあった わけではない。事実、私の家にもテレビはなかった。ある夏の夕方、隣の家の窓越しに、その家の茶 の間にあるテレビを見ていると、おばさんが私にスイカを一切れくれ、「孝治ちゃん、これもってお家 にお帰り」と言った。私が言われたとおり家に帰ると、さすがに父母は私を不憫に思ったらしく、翌週 には新しいテレビが我が家の茶の間にやってきた。世の中にはテレビの悪口を言う人が多い。テレビを 見る時間を何か別のこと、たとえば、読書やレコード鑑賞や家族の語らいに回したらどんなに人生が 充実したものになるかを懇々と説くのである。実に浅はかな考え方である。こういう人たちは、 テレビというメディアと個々のテレビ番組とを混同しているのである。読むに値する本と値しない 本があるように、また、聴くに値する音楽と値しない音楽があるように、見るに値する番組と値しない 番組がある。読むに値しない本があるからといって読書そのものを否定したり、聴くに値しない 音楽があるからといって音楽そのものを否定する人はいないだろう。ところが、テレビなんか見るな と主張する人たちは、見るに値しない番組があることをその理由にするのである。もしすべての 番組が見るに値しないものなら、彼らの言うことは正しいが、事実はまったくそうではない。 倉本聰や山田太一のドラマを例に出すだけで、そのことの証拠としては十分だろう。テレビが 家族の語らいを奪うというのも嘘だ。私たち夫婦は二人ともテレビドラマが好きで、妻の煎れて くれた珈琲を飲みながらテレビドラマを見ることは、私の日々の楽しみの一つになっている。 仕事で帰りが遅くなりそうなときは、家に電話をして、ビデオに録っておいてくれるように頼む。 そして、ここが肝心な点なのだが、妻は一人で先にそのドラマを見てはいけないのである。 そんなことをしたら夫婦の間に波風が立つ。「君はそういう女だったのか」ということになる。 二人で一緒にテレビドラマを見ることに意味があるのである。それは、ちょっと気取った言い方 をすれば、経験の共有であり、物語の共有ということである。同じ屋根の下に住んでいれば、 夫婦はおのずと人生の物語を共有すると考えるのは楽観的である。時間と空間を共有していても、 物語を共有していない夫婦というのはたくさんいる。テレビというメディアは、番組の送り手 と受け手をつなぐだけでなく、受け手同士をつなぐ働きもする。夫婦にとってのテレビドラマは 恋人たちにとっての映画なのである。

 最後に、『人生を複雑にしない100の方法』で提案されている方法には他にどんなものがあるかを、 の5分類に従ってあげておこう。

 1)(この本を読む前から)すでに実践しているもの
・ 家の中では靴をはかない。(普通の日本の家庭はみなそうである)
・ クレジットカードは一枚に。(JCB早稲田カードというのを使っている)
・ 夕日を眺める時間をとる。(私の『生活学入門』に書いてある)
・ 何もしないこと。(同上。著者は私の本を読んでいるのかもしれない)
 2)その必要のないもの
・ システム手帳の奴隷になるのをやめる。(あんな分厚い手帳をもつ人の気がしれない)
・ 小さな家に引っ越す。(すでに十分に狭い)
・ 手のかかる芝生をやめる。(そもそも庭がない)
・ ハイヒールは脱ぎ捨てる。(履いた経験がない)
 3)してみようかなと思うもの
・ 住宅ローンを早めに完済する。(売れる本を書くんだ)
・ 炭酸飲料より水を飲む。(「桃の天然水」は「水」と考えてもいいのだろうか)
・ 雑誌の定期購読をやめる。(「ニューズウィーク」も最近面白くないしな)
・ よく笑う。(笑う門には福来る)
 4)(できたらいいのだが)できそうにないもの
・ 住職接近を実現する。(新宿区に自宅を購入できるはずがない)
・ 借金をやめる。(したくてしているわけではない)
・ クリスマスカードは出さない。(年賀状と読み替えると、実行は無理そう)
・ 仕事の量をへらして、仕事を楽しむ。(人間関係を損なわずに仕事を断るのは難しい)
・ 自分自身のままでいる。(それができたら仙人になれる)
・ 簡単にいかないことは、しないでおく。(それで許してもらえるだろうか)
 5)する気になれないもの
・ 週一回は9時前に寝る。(テレビドラマが見られなくなるではないか)
・ 食べ物は必ずトレーにのせる。(社員食堂ではあるまいし)
・ 新聞をとるのをやめる。(新聞を読まない社会学者なんて・・・・)
・ お弁当をつくる。(それは妻への当てつけ以外の何ものでもない)
・ アスピリン以外の薬を捨てる。(アスピリンは捨ててもいいが、正露丸はダメ)





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