おでん屋の息子と混血の少女の思い出
−研究室だより・1999年秋−
私は東京(蒲田)で生まれ、東京で育った。だから田舎というものをもたない。父も東京(浅草)の生まれで、 私同様田舎を知らない。母は群馬(勢多郡粕川村)の生まれで、結婚のために上京してきた。上京する ことが結婚(見合い結婚だった)の動機の一つであったらしい。それで私も小学校の夏休みには必ず 母の実家に遊びに行った。だから私にも田舎らしきものはある。しかしそれは故郷ではない。
田舎は空間的なものだが、故郷は時間的なものである。一人の人間にとって故郷とは、若く美しかった 母の横顔や、父の肩車で見た夜店のたたき売りや、遊び疲れて帰る町空の大きく赤い夕日や・・・・要するに 過ぎ去った幼き日々のことである。だから五木ひろしの唄(『ふるさと』昭和48年)ではないが、 「誰にも故郷(ふるさと)はある」のである。
私が通っていたのは幼稚園ではなく、保育園だった。保育園は遅くまで子供を預かってくれた。 したがって保育園に通っている子供は自営業を含めて共稼ぎの家庭の子供が多かった。今でこそ 共稼ぎは珍しいことではないが、そのころ(昭和30年代半ば)は主婦は家事に専念すべしという 考えが支配的だった。そうした風潮に抗しての共稼ぎは家の貧しさを意味していた。私の家は豊か ではないにしても貧しくはない、と少なくとも当時の私は思っていた。父は地方公務員で、母は 内職はしていたものの働きに出てはいなかった。しかし両親は私が保育園へ行くことを望んだ。 近所の子供のほとんどが保育園へ行っており、私が仲間外れになることを両親は望んでいなかった。
私は、はしかにかかったときを除いて、休まずに保育園に通った。保育園にも勉強らしいものはあった が、それは子供たちに満足感をあたえるためにのみあった。子供たちにもそれなりの悩みはあったが、 勉強はいまだその外にあった。
外から見るとあどけなくほほえましく見える子供たちの世界も、よく観察すると、大人の世界の 縮図ないし模倣である。
私たちの保育園には二つの勢力が存在し、園内の支配権をめぐって常に緊張関係にあった。一方の ボスは大工のせがれであり、他方の大将はおでん屋の息子であった。二人とも他の子供に比べてずば 抜けて身体が大きかったが(それがボスの条件だった)、大工のせがれが己の力を誇示することを常 としていたのに対し、おでん屋の息子はやむにやまれぬとき以外は力に訴えることを好まなかった。 私はおでん屋の息子に人格を感じ、彼の陣営に属していた。
もっとも私の存在は現実の喧嘩の場面になるとまったく意味のないものになった。私は暴力否定論者 だった。それは私が理性的な子供だったからではなく、からきし意気地がなかったからにすぎない。 しかし理由がどうであれ、暴力を否定することは正しい。大工のせがれの一団は園内に巣くう悪であり、 私たちはその悪から園内の自由と平和を守る正義の一団である−私はそう信じて疑わなかった。
こうした「男たちの闘い」をよそに、女の子たちはまったく別のもう一つの世界を構成していた。 当時の私にとって、女の子とは机や椅子や雑巾(!)と同じような存在、つまり非情緒的な物体で しかなった。私はそれをどうしたいとも思わなかった。それはあるがままにそこにあるものであって、 それが私を傷つけたり幸せな気分にさせたりすることはなかった。
ところが妙に記憶に残っている女の子がひとりだけいる。その子は色白で、栗色の髪と、パッチリと した目をもっていた。昼食のときは机を並べ替え、男女が向かい合うことになっていた。私の向かい が常にその子であり、その子の弁当は常にサンドイッチか海苔巻きだった。私にはそれが不思議だった。 「あたりまえじゃないか」とみんなは言った、「箸を使うのは混血児には無理だよ」。しかし、と 私は思った、箸を使えるかどうかは訓練の結果であって、生まれつきのものではないだろう。その子は もしかしたら軽い小児マヒだったのかもしれない。
「箸を使うのは混血児には無理だよ」−その考えは馬鹿げていた。しかしそう考えたのはわれわれが 子供だったからではない。少なくともそのためだけではない。子供たちは大人たちのものの見方を 取り入れていたに過ぎない。それが混血児に対する当時の世間の目だった。この子は一つの負い目を 背負って生きている、と私には思えた。私の目の前でおとなしく海苔巻きを食べているその子を見つめ ながら、私はその子がこれから出会うはずの困難について考えた。それに耐えるには彼女はあまりに 弱々しく見えた。おでん屋の息子も私に同感してくれた。「あの子は何も悪くなんかない!」彼は 怒ったように言った。しかし世の中にはあってはいけないはずのことがしばしば現に存在するということ に私たちは薄々気づきはじめていた。
その子の家は蒲田駅の近くにあった。私は一度だけその子を家まで送っていったことがある。理由は 覚えていない。その子が傘を忘れたせいかもしれない。あるいは気分が悪く早引きすることになり、 私はその付き添いだったのかもしれない。理由がなんであったにしろ、この子は守ってやらねばならない、 そう感じつつ私は歩いていた。薄暗い路地の奥にその子の家はあり、表札は外国語ではなく漢字で書かれて いた。そして、私の記憶が正しければ、女の名前だった。その子は何も言わずに家の中に消えた。 さすがに私は報われないものを感じた。しかしすぐに気を取り直していま来た道を引き返した。 よいではないか。私たちは正義の一団なのだ。そして正義は常に報われるとは限るまい・・・・。
あのときの感情はむろん恋ではなく同情に過ぎなかった。しかし時間の流れの中で同情が恋へと変わることは ありえないことではない。私の場合、そうはならなかったのは、私が幼かったからであり、やがて オリンピックの開催に間に合わすべく東京の各所でいっせに始まった区画整理で、駅周辺の風景が すっかり変わってしまったとき、その子も消えてしまったからである。