20 歳 の 断 章
―研究室だより・1998年冬―
大人であれば誰にでも「20歳の頃」がある。しかし、年齢は同じでも、時代が違えば「20歳の頃」 の風景は異なる。私は1954年(昭和29年)の生まれなので、「20歳の頃」とは1974年(昭和49年) である。山川出版社『日本史小年表』からその年の記憶に残っている出来事を拾い上げてみる。
1月16日 石油危機対策としてNHKテレビは夜11時放送打ち切り、民放も時間短縮はじめる。
3月10日 ルバング島で小野田寛郎元陸軍少尉救出。
8月30日 東京丸の内の三菱重工本社玄関で爆弾爆発。重軽傷者300人。
(この事件のことは忘れてしまっている方が多いかもしれないが、私は鮮明に覚えている。
事件があったとき、私は現場にほど近い千鳥が淵のボート場でアルバイトをしていたからである。
突然、走行中の車のタイヤが破裂したような、しかし、それよりもずっと大きな音がした。
帰宅して、新聞やテレビで事件のことを知り、吃驚した。)
10月12日 プロ野球巨人軍長島茂雄引退を表明。
11月26日 田中首相、辞意表明。
もちろんその頃は気づかなかったが、いまにして思えば、「戦後」という時代が本当に終わったのが 「20歳の頃」だったのである。1956年の『経済白書』に「もはや戦後ではない」という有名な 言葉が載ったとき、私は2歳だった。しかし、それは敗戦のどん底から日本社会が完全に立ち直った という意味であり、「戦前」とも「戦中」とも「戦争直後」とも違う「戦後」という新しい状況 (高度経済成長)は、むしろそこから始まったのである。そしてその状況に終止符を打ったのが 1973年の第一次オイルショックだった。長島茂雄や田中角栄という英雄(ヒーロー)の降板は、 文字通り「一つの時代の終わり」を象徴する出来事だった。ホームランか三振か、ファインプレーか エラーか、といった二者択一的人間ではなく、安定したプレーをする組織順応型の人間を社会は 求めるようになった。退屈な時代が始まろうとしていた。
私は4月生まれである。4月生まれの便利な(?)ところは、年齢と学年がピッタリ一致することである。 20歳の頃、私は大学2年生だった。『生活学入門』(旧版)に載せた自分史の中でも書いたことであるが、 当時の早稲田大学文学部では、学生たちは2年生の秋に各自の専攻を決めることになっていた (現在は1年生の冬)。私は日本文学を専攻するつもりで入学したのだが、キャンパスは内ゲバ 騒ぎで騒然としており、文学という内向的営為(と私には思えた)には相応しい環境ではなかった。 私が必要としていたのは、自己の内面を語る言葉ではなく、自己の置かれた環境を分析する 言葉だった。・・・・しかし、文学から社会学への方向転換はスンナリとはいかなかった。水前寺清子の 『365歩のマーチ』ではないが、「三歩進んで、二歩下がる」といった感じで、文学への未練を 絶つのは大変だった。専攻の決定は、たんにそれだけのことに留まらず、その向こう側にある 職業選択と結びついていた。私の頭の中では、文学を専攻することは高校の国語の教師となる ことと結びついており、社会学を専攻することは研究者になること(具体的には、大学の教師に なること)と結びついていた。冷静に考えれば、高校の教師になるのも簡単なことではなかった はずだが、数の問題から言って、大学の教師になることの方がずっと難しいことに思えた。 もちろん人並み外れた才能があるか、才能があるかのように錯覚していれば、迷うことはなかった のかもしれないが、残念ながら私にはそれほどの才能はなかったし、そのことを自覚する程度の 冷静さは辛うじて保持していた。そのため「文学か社会学か」という問題は四六時中私を苦しめた。 五木寛之の小説に『青年は荒野をめざす』というのがあるが、青年というのは困ったもので、 迷ったときは、結局、困難に思える方を選択してしまう習性がある。私は人文という専修に 進み、社会学と哲学と心理学を同じ割合で履修し、それから大学院へ進んで社会学を本格的 に勉強するという計画を立てた。将来に対する自負と危惧とが心の中に同居し、その日の天候に よって、一方が大きくなり、他方が小さくなった。もしいま「20歳の頃に戻りたいか」と 質問されたなら、私は「いいえ」と答えるだろう。若返りたいとは思う。しかし、20歳の頃に 戻って、あのときと同じ精神状態を味わうのは御免被りたい。その後の自分の人生を知りつつ 20歳の頃に戻るのだったら考えてもいいが、それは明日の競馬新聞を片手に今日の馬券を 買うようなもので、それではスリルも興奮もない。楽しいのは最初のうちだけで、その後には 地獄のように退屈な日々が待っているだろう。やはりこれも御免被りたい。未来は常に闇であり、 その闇を前にして、ワクワク、ハラハラするのが「生きる」ということである。
私はいま20歳前後の若者たちを日々相手にしている。たとえば、年賀状の代わりに電子メールで こんな新年の挨拶を送ってきた学生がいる。
明けましておめでとうございます。卒論指導の先生も無事大久保先生に決まったので今年も何かと お世話になると思いますがよろしくお願いいたします。
ところで突然思ったのですが、今まで私は、心の中だけは自由だわと考えて(というか信じて) いたけどやっぱり空想の世界でも人は不自由なんですね。新年早々変なことを考えていた夜でした。 なにか超越的なものの呪縛があるのか、結局は死というものが存在するからなのかよく判りませんが。
今日我が家に数人の客人が来て、その中の小学生に「おねえちゃんはどんな勉強をしているの?」 ときらきらした瞳で聞かれてしまいました。言葉に詰まった私をみて父親が一言、「小学生にうまく 説明できなければ勉強しているとはいえないなあ、はっはっは。」と。嗚呼反省。先生にも申し訳ないですね。
なんだか情緒不安定でどうしようもありません。よくあることなんですが。気分の浮き沈み の激しいのは私が女性だからなのか、それとも中学時代の思春期から成長していないからなのか。
ああもう、あまりにもわけの判らないメールなので送ろうかどうしようか迷ってしまいますが、 せっかく打ったので送ります。軽く流してください、すみません。本年もよろしくお願いします。
この学生に限らず、20前後の若者というのは、おしなべて自己中心的であり、礼儀作法をわきまえて いない。しかし、彼らは間違いなく「生きている」。人生の方向性をなかなか確定できず、 しかし、確定することを自他ともに求め、求められ、焦燥感の中で日々の生活を送っている。 どんなに見た目には自堕落な生活を送っている若者も、彼の内部には焦燥感(コンナコトヲシテイ テハダメダ)が渦巻いている。それに似たものは中高年の胸の中にもあるが、われわれには青年の ように自ら進んで困難な選択をする習性はない。そうした習性はすでに失われている。 中高年は荒野をめざさない(ただし、そこに追いやられることはある)。繰り返すが、私は20歳 の頃に戻りたいとは思わない。しかし、20歳の頃の自分を忘れたくはない。